102 何もない家に迎えられ… 朝比奈隆・町子夫妻③

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(102

結婚したのは“大東亜戦争と一緒なの!!”と語る朝比奈先生。小生は正直ピントこない。1941年…第二次世界大戦の局面の1つで、太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘、それに日中戦争も包括する…を日本政府は“大東亜戦争”と呼称していた…歴史の本で読んだことのあるような。

そんな1941年の世相は…物資の不足から、買占め、売り惜しみ、抱き合わせ(欲しい商品を入手する為には欲しくない商品も買わされる)が横行。麦酒=ビール1本48銭、葉書2銭、高村光太郎が「智恵子抄」を出版、アメリカ映画上演禁止、夏の中学野球(今の高校)大会中止、蘇州夜曲(李香蘭)ヒット…していた。

♬A:朝比奈隆 M:町子夫人 Y:ヨッサン

A「ここの家は、昭和15年(1940年)から住んでるんです。女房が来る前から、1人で。絨毯もなきゃ、カーテンもなしね、モルタルの璧でね、板の間で、何にも無しで。部屋数はたくさんあって広いんですけど、家賃安かった…と言うのは、こんな板の間の家、誰も住まない。この辺り、みんな西洋人が住んでましたから、要するに第2期の異人館(北野に続く)なんですね。洋館まがいの家が多い。住み手が無いから家賃安かった。そこへ1人で入って、畳を3、4枚買ってきて、古畳を。その上へ布団敷いて、万年床で寝てたんです。そこへ嫁が来たんですわ」

♬  男臭い、殺風景な家に、町子夫人がピアノ持ってきたり、いろんな洋服箪笥持ってきたりして、段々格好がついてきた!!

A「今でも使っている洋服箪笥、買って調えてくれって言われましたから、前は阪急(百貨店)の家具部にいましたんで、阪急で1番高い1番大きなのを買ってきたんです。僕の金じゃないですヨ!家内のほうの金ですよ。嫁入り道具で」

Y「先生の持ち物は?」、A「何も無いですヨ」、M「譜面の戸棚って言う、立派なのをね、設計して(阪急さんが)作っておいてくれましたですけど」、A「あれもお前のか!?あれ」

もし朝比奈ご夫妻が“新婚さんいらっしゃ~い”に出演なさっていたら“おもろい夫婦”グランプリもんや!!?

Y「生計のほうは、どうなさってたんでしょう?」、A「色々と、家内も働いて。まぁ僕だって少しは働いていましたから」、Y「(奥様は)音楽を教えてらっしゃって」、M「勿論、私も(ピアノを)教えましたけどね。なんだかね、物が無かったんですよ、大体が」

A「金があったとしても、物が無い」、M「お金が無いって事を、そんなに切実に感じるような状態じゃなかった訳です。物が無かったから」

A「それにしても無かったなぁ…」。たとえば、擦り切れたタオルは捨てられないから刺し子にして使って…顔拭いたり。(信じられない!)

A「今、家(うち)にタオルったら山の様にあるんです。昔の恨みで。タオル買おうってね。儚い(はかない)望みだったですから。月給60円の時に、家賃が50円だったんですな」、M「家賃は40円だったんじゃなかったかしら?」、A「50円!55円だったのを、5円値切って払ったんだから」、Y「そうゆうの、さっきから、よく覚えてらっしゃいますねぇ」、A「そら、無い時に、大きいお金ってのは、60円の時に50円て言ったら大きいですよ!!」

♬  防空ずきん、モンペ、ゲートルが暮らしの必需品となった1941年。その年に岩下志麻、倍賞千恵子、三田佳子、石坂浩二、渡哲也らが生まれている。

朝比奈隆著『楽は堂に満ちて』(音楽之友社)に“結婚”について書かれていますが、わずか2ページ。このインタビューがいかに盛り上がったかお分かりいただけるでしょう。

さて、次回は…ええ話がまだまだ!(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

102asahina

写真展「巨匠・朝比奈隆」の案内はがき

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