108 タカラジェンヌと歌舞伎役者の対談① 上原まり・尾上辰之助

“芸のためなら~女房を泣かす~…雨の横丁~法善寺~”ヨッサンが行きつけのママさんとよくカラオケでデュエットしたのが“浪花恋しぐれ”。2番をママさんがねっとり(もとい)しっとりと“そばに私が~ついてなければ~…いつか中座の花になる~(そして台詞が)あんたが日本一の落語家(この部分を…こうのたまう)アナウンサーになるためやったら、うちはどんな苦労にも耐えてみせます…”この上なく上機嫌になり…財布も緩むヨッサンの姿があった。

その中座が約350年の歴史に幕を閉じたのは1999年…なんでお膝元の文化や芸能に対して大阪の行政は肝心な時に“じぇに”(お金、補助)をださんねや⁉怒ってたら…取り壊し作業中に炎上し燃え尽きた…2002年…丁度10年前のこと。その怒りはいまだ炎上中や‼道頓堀のど真ん中…中座…笑いに包まれた松竹新喜劇や浪花の夏の恒例の歌舞伎公演も忘れられんナア。

せやせや、歌舞伎というたら(かなり強引な話の持っていき方やけど)今だ、記憶にも記録(録音)にも残る、思わずニタリと笑える対談があるのです。

ヨッサンがディレクターをしていた「タカラジェンヌ(宝塚スター)が会いたい人のコーナー」で、“女の世界”と“男の世界”に励む対談をオンエア…今や筑前琵琶奏者の名手上原まり(当時、花組娘役トップスター)と歌舞伎界のサラブレッド初代尾上辰之助(二代目尾上松緑の後継者として期待されたが、1987年に40歳で夭折。)

あれは1977年1月26日のことです…対談場所は東京の国立劇場の…静まりかえった(公演を終えた)神聖なる舞台の上に椅子4脚(インタビュアー上原:U、答える人尾上:O、収録係ヨッサン、収録録音機)

第1章…反抗期

U「辰之助さんはお父様が松緑先生で、生まれた時から歌舞伎の世界にいらっしゃいますが、後を継がれるというのをはっきりと(O「自覚したのは?」)いつごろですか?」

O「中学3年ぐらいですかね。小学校の2年から3年ぐらいまでお芝居大好きだったんですよ。子役に出ていまして、僕の同年輩っていうのが多いでしょ!楽屋に来て友達に会えるていうのかなあ。学校の友達とまた違いますから。所がね、とある事件がキッカケになり、歌舞伎役者は絶対に嫌だと。うちの父に怒られたんです。こっぴどく。何で僕だけが怒られるのかって…同じ年頃の子は怒られないのに。随分出なかった…お芝居に。中学3年頃まで。」

U「じゃ、悶々と過ごしてらっした⁉」

O「その頃、スポーツに憧れて、どうしても激しい運動がしたい…と、まず“野球”。これは平凡すぎる…。それじゃ、ボクシングやりたいなあ。で、ボクシングを本当に習いに行こうと思ったんですが…最初に考えたのは“顔がクシャクシャ”になっちゃうでしょう?そうすると役者は駄目だと思った訳ね」

U「頭のどこかに…」

O「シツコーク、残ってんですよねェ…柔道やればがに股になるし…」

U「結局、やっぱりもう生まれながら役者の子は役者」

O「それをどこで自覚するか…だから染五郎さん、僕の従兄弟(イトコ)ですけど、染五郎さんなんかもう、早いんじゃないですか…自覚されたのが」

この染五郎は後の九代目松本幸四郎…そう!現在の市川染五郎、松たか子のお父さん。そして初代辰之助を引き継いだ彼の長男二代目辰之助は…初代の命日2001年3月28日に四代目尾上松緑を襲名したが、亡き初代辰之助は三代目尾上松緑を追贈されたとか。いやはや歌舞伎役者の親子は花を咲かせるのが大変です。

では皆さん、次回までに市川染五郎著『歌舞伎のチカラ』(集英社)を読んでお勉強を‼(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

108takaraduka

市川染五郎さんの著書『歌舞伎のチカラ』

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