132 松鶴に弟子入りする前の話 笑福亭仁鶴 ①

前回、全盲のテノール歌手・新垣勉さんが、神戸岡本の声楽の先生宅にレッスンを受けた後、よく“なんば花月”(高島屋本店東、南海通りにあった)の落語を聞きに行った…と原稿化していたら、ふと2人の噺家が二人三脚のように思い浮かんできたのです。

1人は全盲の落語家・笑福亭伯鶴(はっかく)君、そして今月、なんばグランド花月で上演されている“吉本百年物語”の主人公・笑福亭仁鶴さん。伯鶴君は彼が高校生(盲学校)の頃からの旧知の仲で、“やめときや!”と言ったのに何と6代目笑福亭松鶴師匠に入門(1975年)。目が不自由なハンディを乗り越えた初舞台は“はらはらドキドキ涙付き”だった。そんな彼の披露宴でスピーチをさせてもらった。(仲人が、亡きジャーナリスト黒田清さん…あの方が生きていらっしゃったら、今の“長”をバッサリ‼やってくれたのに…惜しい)

かたや、今年、芸能生活50周年を迎えた笑福亭仁鶴さん。松鶴師匠に入門したのが1962年。そう言えば1970年前後の仁鶴さんの売れっ子振りは凄まじかった。

そんな超多忙がほんの少し緩んだ頃の1976年10月…ヨッサンはデンスケ(録音機)担いで宝塚歌劇団随一の爽やか・にこやかタカラジェンヌ・宝純子=レモンちゃんと仁鶴さんに会いに行きました。レモンちゃんとの対談は、今、聞いてもレモンのようにフレッシュ。では再生します…。

N:仁鶴 R:レモン(宝純子)

R「(TVドラマ)“どてらいやつ”で、お菓子屋の社長をしていらっしゃる仁鶴さんを梅田花月の楽屋にお訪ねしました」

N「よう来てくれはりました。これが僕の楽屋でございまして、他はもう、だ~れも居てないんです。広いでしょ‼」

R「そうですね⁉(本当は倉庫のような地下室2階の、それはそれは楽屋とは呼びにくい、個室もない、花と呼べるものもない、だだっぴろいゴザ(⁉)に何人もの芸人さんが思い思いの時間待ち。男臭くもあり)

N「花がず~っと飾ってありましてね」最初からジョーダン冗談、ラジオだから分からないと思って。

R「この間、見せて頂いたんですよ!高座。楽しかったワ、とても。1つお聞きしていいですか?」

N「どうぞ」

R「お幾つくらいから落語なさってらっしゃいますか⁉」、N「僕は18歳の時からですわ」

R「そうなんですか…私は、3つか4つくらいじゃないかと」

N「なんやそれは?18からやって、丁度、今で10年目ですわ」

R「ああ、そうですか。ええ、ちょっと待って!」

N「え?何が」

R「すっかり乗ってしまった」レモンちゃん騙される。

N「ハハハ。そないしといて下さい」

R「はいはい」

N「この世界にプロとして入ったのは24歳ですけど、18ぐらいからアマチュアでやってましたし、芝居の方のプロダクションにも入っておりましてね、いろいろやっとって、どっちがエエやろと考えましたけど、その当時私、“芝居仕出し”ばっかりで…。(いわゆる端役…通行人や群集のこと)洋酒バーのカウンターに座ってね、カメラが後ろから来ましてね、ほんで1分ほどたって、そのカメラが撮ってるのは、カウンターの中に入ってるバーテンさんのアップですな、私ら、うしろからス~ッと頭だけかすめていくようなもんでね。(1日拘束で…カメラリハーサルで何度も繰り返し)1分くらいで、“おつかれさん”でしたで、当時500円ほど、もろてたんですけど」

信じられない苦渋の時代。(当時500円…当時の大工さんの手間賃が1日730円)

R「はあ???」、N「それから1人前の役者さんになろうと思っても暇かかるしね、才能もないし。1人でやる落語の方が向いているんではないかと、合わせて勉強しとりました。色々憶えたり、落語の資料読んだりして。それから、笑福亭松鶴へ弟子入りしたのが24歳です」。レモン汁が“しょっぱい”時代のお話でした。続く…。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

 

笑福亭仁鶴さん主人公の「吉本百年物語」のチラシ

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