160 我が友・織田作之助を語る 田尻玄龍住職 ①

ヨッサンの心の襞(ひだ)から青春時代の雫(しずく)がポトリ…。

あれは夕陽丘高校を卒業して(浪人中)府立夕陽丘図書館に通って勉強?していた頃。同じクラスだったN子が別のクラスのT子と一緒に勉強していた。ある夜、そのT子から電話があった。

“あなた、今日、図書館に辞書忘れたでしょ!!?”“あ”にアクセントがついたイントネーションは今でも記憶にある…何故T子が電話を⁉それは謎だけど、そのあとお付き合いが(これまた何故か)始まった。初めてのデートは“京都国際会館~円通寺~ほか”家まで送っていった。何度か送っていった…近鉄上本町駅から南へ約5分くらいのところに家があった。

大阪が生んだ作家、織田作之助が生誕100年を迎えた。大阪人なら“大阪・織田作・夫婦善哉”は3点セットの常識だと思う。その織田作を描いた音楽劇「ザ・オダサク」の舞台(大阪松竹座)を観て、今一度「大谷晃著“織田作之助”」(沖積舎)を読み直し、織田作之助の軌跡を追ってみた。

27ページに織田作の生まれた家は、大阪市南区生玉前町5215番地、現、大阪市天王寺区生玉前町4番××号…とある。地図を“検索”して、お、思わず腰が…抜けそうになった!あのT子の家はその裏手にあったんやないか‼それから彼女との“ファーストキ××”はその近くの上汐公園や。泣いて帰りはった。(嬉し泣きの筈や)残り香がヨッサンをくらくらさせたっけ。(その後は???)

さて、ここに大変貴重なインタビュー録音がある。織田作が生まれたのが1913年10月26日、亡くなったのが1947年1月10日。その織田作と学校が一緒だった方が4年前までご存命で、亡くなる10カ月前にヨッサンはマイクを向けたのだ…

“善哉忌”(34歳で夭折した織田作を偲ぶ会)の2009年1月12日、場所は天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)で。ここの住職にマイクを向けた。そう!田尻住職は織田作の旧制高津中時代の同級生だった…つまり田尻住職も1913年生まれ。

しゃきっとした姿と声、明晰な記憶力、とくとお聞きあれ‼

田尻住職 「織田作は生玉の方の小学校(東平野小学校、現在の生魂小学校)から高津中学(現在の高津高校)へ入学しましたね。私はここの(お寺の)隣の清堀小学校(現在の真田山小学校…ヨッサンの遥か昔の大先輩や‼-)から高津に入学しましたから(地域が違いますから)小さい時に遊ぶということはありません。たまたま大正15年の4月に高津中学校に入りましたら、1年のB組に配属されて、そこに鈴木作之助がおった訳です。そこからの付き合いですね」

大谷晃一著によると確かに1年B組とある。鈴木姓から入学後1カ月で織田作之助となった。やっと父母が婚姻届を出して入籍したからだ。

田尻住職 「だけど、私は授業が済んだらウチに帰ってくるし、彼は生玉まで帰りますね、ところが、友達連れて、地蔵坂を西へ下って、道頓堀を歩いて、千日前へ出て、そして千日前の大劇から左へ折れて日本橋へ、それが毎日の習慣だったようです。

で、日本橋に来たら、そこに彼のお姉さん竹中タツさんの(旦那の)竹中国治郎氏の商店(電気商)がありましてね、そこへ寄る訳です。(二人が)親代わりしてましたから、それが習慣であったようです。“ここがワシのウチや”ゆうて。

彼は三高在学中に両親を亡くしてますねん。それで、もっぱら三高(現在の京都大学)へ入ったのも、竹中国次郎氏の学資、竹中タツさんのヘソクリ。これを毎月送ってもらって、それで京都へ下宿して三高へ学んだんです」これぞ生き証人の極みか。話は続きます…(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

160odasaku

楞厳寺にあるオダサクの墓

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