162 オダサクが語った妻への思い 田尻玄龍住職 ③

ヨッサンの人生で、引き出しに一番多く溜まっている諺は…後悔先に立たず=覆水盆に帰らず=(英語でこれだけは覚えてる)イット・イズ・ノー・ユース・クライング・オーバー・スピルト・ミルク(溢れたミルクを嘆いても無駄)

さて、作家・織田作之助(1913~1947)の同級生だった田尻玄龍住職(1913~2010)が止めどもなく語るオダサクへの思い出。

最愛の妻について「一枝さんて言ってね、三高に在学中に、授業が終わると、友人青山光二さんなんかと同じクラスで、“小説家になるんやったら世界をよ~く知っとかなアカン”からゆうて、木屋町あたり(を中心にあっちこっち)に飲みに歩く訳です…カフェに。その時に親しくなった方が彼の嫁さんになった一枝さんですね(昭和9年頃のこと)」

実際に住職はお会いになった…すこぶる実直な人だったと。そして一枝さんの最期も住職が関わったのだ…

「昭和19年の8月6日に亡くなった。ここ(楞厳寺)でお葬式をしたんですが、〈略〉身内だけが残った時に彼が私に“田尻君!今日の仏はなァ、うかつにもワシが殺した‼”死なしたと言う言葉と殺したという言葉では感じが違う。“え~ェ?殺したて、どういうことか聞かして欲しい”ほなら彼が“ワシは原稿書いて人に読ませて、人が読んでくれて悦になってるけど、先のことはあまり気がついていない。将棋を指すとき、この駒をここへ打ったら、2手、3手先にどういう風になっていくか考えながら駒を置く。なのに自分のことは気がつかなかった」と。

確かに一枝さんは甲斐甲斐しく夫に尽くしていた‼この間の舞台(音楽劇「ザ・オダサク」)でも、その日常生活がリアルに表現されていた。

オダサクが北野田に世帯を持った時に、大阪から毎晩のようにお客さんがあった。住職が続けます。

「織田が私に言うのに“ワシの書いたもんを読んで、自分に関心のある人は皆お客さんや。そりゃ年の若いやつでも先輩であろうと、こりゃ大事にせなアカン。作家というのは水商売と同じことや”」

こうしてお客が来たら終電車まで接待するわけだ。帰ったら、奥さんは大変や!!?後片付けをし、洗い物もして、食器類をちゃあ~んと棚に入れ、全部済ませて…。息つく暇なく、原稿を書いているオダサクの机のそばに座り“漢字辞典”を持って待機。これが毎日。オダサクはちょっと漢字に詰まったら奥さんに(辞書を)引かせる。~夜が明ける、原稿書き上げる~

田尻住職が語るには「それを封筒に入れて“一枝、これなあ、朝の9時半か10時ごろ大阪から取りにきよるから渡しといてや~”ゆうてそのまま寝てまう訳です。奥さんは、原稿はお金になるんやから、お客さんや!“こんにちは!”って入ってきたら、ハイってそのまま渡す訳にいけへん。玄関の横の応接に通してお茶の1つも出して、“ご苦労さんです”ゆうて、封筒に入った原稿を渡す。女性だから身づくろい身だしなみ、お茶の用意もせなアカン。だから寝る間がない。そういうことが続きますと、寝不足で、身体が過労でそれが原因で病気になる。そして死んだ。死んでから気がついた。振り返ってみたらそういうことやった。

だから、“これはワシが殺したもんや、鉄の草鞋履いて日本中歩き回っても、二度とお目にかかれるような家内とちゃう”そこのところで涙をこぼしてました。平素、偉そうに将棋指すときに、2手、3手先を考えて駒打ってるのにね。“人間というものは誠に愚かなもんや”と彼はいいましたね」

オダサクの残した教訓を朗読劇のように語る田尻住職であった。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

162odasaku

昭和14年7月15日大阪市住吉区阿倍野筋2丁目の料亭“千とせ”のでの織田作之助と一枝さんの結婚式

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