181 名手エルマンの生演奏に衝撃を受け… 貴志康一 ⑤

さて、架空特別番組“夭折の輝石・貴志康一物語”を続けましょう。

A:山本あや(今は亡き康一の1歳下の妹) Y:ヨッサン

貴志康一の音楽に乗せて~

Y「小さい頃、お住まいだった桜ノ宮の邸宅って広かったんですってねェ⁉(いつもの大阪弁がでない)」

A「ハイ、結婚式場で有名な“太閤園”や“藤田美術館”の隣にございました。祖父が茶室“松花堂”も再建しましてね、ご存知でしょ“松花堂弁当”…茶室とお弁当を考えたのが江戸時代の文人・松花堂昭乗なんです。」

Y「……(生唾ゴックン、太閤園で結婚式の司会で昔、稼いだもんや…なんて台本には書けない)」

A「祖父も父も趣味の豊かな粋人で、また信心深い人でした。祖父は毎朝4時頃に起きてお経を唱えていましたが、兄は夢うつつで木魚の音を聴いてうなされていました」

Y「あっ、それが後年お兄さんが作曲した交響曲“仏陀”に乗り移ったんだ!!?さてさて、お兄さんが音楽に傾倒していったのは何故なんですか?」

A「母がヴァイオリンを弾いていまして、よく聴かされましたし、父も音楽好きで天王寺野外音楽堂で陸軍第4師団軍楽隊の演奏会に連れてってもらいました」

Y「あ~、そ、それはのちに大阪市の補助で“大阪市音楽団”になった…(どいつや⁉伝統をぶっ壊したのは⁉)それで、本格的にヴァイオリンにのめり込んでいったのは?」

A「ハイ、当時は芦屋の館に住んでいまして、丁度、兄が小学6年(1921年)の時、神戸でヴァイオリンの名手エルマンの生演奏に触れ心臓が爆発しそうな衝撃を受け…それから総合芸術の虜になったんでしょう。映画も大好きで、中学時代は新開地、高校時代になると道頓堀松竹座がお気に入り…何故かというと松竹座には40数名のオーケストラがあり、時には本格的なクラシック音楽も演奏していたんです。

*ミッシャ・エルマン…派手な弾き方、粘っこくって甘い音色“エルマントーン”で一世を風靡。

機は熟した‼康一のヨーロッパへの40余日の船出がはじまった。17歳の一人旅が。

◎スイスのジュネーブ~ドイツのベルリンでヴァイオリン演奏の研鑽

◎1929年、念願のヴァイオリン=ストラディバリウス(キング・ジョージ、1716年製、6万円で購入…入浴5銭の頃)

◎作曲法をヒンデミット(ドイツを代表する。今年没後50年)に学び親交を結ぶ。

◎康一の生涯で最大の人物…指揮者・フルトヴェングラーにかかえきれない影響を授けられた!!!そしてベルリンフィルを指揮し、自作のSPを録音。作曲と指揮がメインに。それから映画製作にも力を注ぐ…日本風情を世界の人に‼

Y「そんな貴志康一を我らが親父・巨匠朝比奈隆先生にご登場頂きます。生前は言葉に尽きせぬほどお世話になりました」

朝比奈「や~や~、貴志君とは8ヶ月ちょっと僕の方が年上でね、だけど、彼が早く亡くなっていなかったら僕は指揮者になってなかったかもしれないね。彼が帰国後、新響(現在のNHK交響楽団)でベートーヴェンの第九を指揮し、それも暗譜で、かつ化粧して…ウチの女房がそんとき合唱団の一員として歌ってたんだ。彼はやたら声が大きくって、心斎橋だったか道頓堀で向こうから“お~い”って声かけてくるんですわ。(朝比奈先生だって馬鹿でかいのに)惜しい男を亡くしたもんですな」

Y「あまりにも早い人生の晩秋…まさに本日11月17日は彼の命日にあたります」~音楽完奏

*ヨッサンの夢…2年後の道頓堀完成400年記念に彼の作品「道頓堀」をフルオーケストラで川べりで演奏すること‼康一がどない喜んでくれるやろ??!(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

181kishi

毛利眞人著「貴志康一 永遠の青年音楽家」(国書刊行会)

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