195 日本クラシック界の巨匠 朝比奈隆 ①

このコラム?エッセイ?随筆?リポート?コーナー?「音楽交遊録」もあと少しで200回を数えることになった。今、第4コーナーを回っていよいよホームストレッチに向かう…が、なかなか筆が前に進まない。それは、なんでかゆうたら、人物が巨峰(巨匠)だからだ。

ヨッサンが“さん付け”ではなく“先生”としか言いようのない言えない方がお二人いる。お一人はこの“コーナー”でもご登場頂いた“毒舌評論家であり指揮者の宇野功芳先生(今年5月9日で84歳)。なんやかんや宇野先生に対しては色恋やら下ネタ会話を交わすことが出来る。

宇野先生からもここに書くのも恥じらう話題が噴出(…ぐっと押さえて我慢)この前も551蓬莱“パンちゃん”で会食。黒帽に長髪のヨッサン(昨年は生誕100年の織田作之助似と言われた)が到着するなり、第一声が“や~偽ベートーヴェンが来た来た!”(勿論、佐村河内守のこと)“それにしても新垣も(ゴーストライターのこと)つまんない曲を書くよナア”と毒舌説法健在。“宇野先生、相変わらず口立つ、足腰立つ、アカンのは…ですナア”とやり返すヨッサン。

前回、このコーナーに登場したマエストロ広上淳一さんもマイクを向けると、兎に角、年上、先輩の名前には“先生”を御付けになる。外山(雄三)先生、小澤(征爾)先生、井上(道義)先生…、はたまた“モーツァルト先生”“ベートーヴェン先生”と仰った時は、笑ってしまったが、あの先人達の音楽と格闘するマエストロにとって彼らの音楽はアルプスに登るほど尊厳と難渋な偉人なのだ。(それをまぁ~、あの偽物は…どアホ!!)

で、ヨッサンが“さん付け”出来ないお方…もうお一人が我らがマエストロ朝比奈隆先生。2001年12月29日、93歳で亡くなった日本クラシック音楽界の重鎮・長老・巨匠・朝比奈先生。真に“巨匠”と呼ぶにふさわしい方…ヨッサンの音楽カテゴリーの中で。

そしてヨッサンがこれまでマイクを向けた数限りない方々の中で、朝比奈先生は先生そのものが芸術品だった。そして、敬愛すべき師であり理想の父親像だった。それにヨッサンが一番多く“おっかけ”をしたのも朝比奈先生だった…先生の自宅、大阪フィルの練習場(扇町プールの下にかつてオーケストラの練習場があったことを知る人も少なくなってきたが、雨がポタポタ。コンクリートむき出しの倉庫なので音が、音楽が響かない。よ~お、あんなとこでやっとった。それに狭い)、その指揮者控え室、東京カテドラル教会(残響6秒…天から音が降ってくる)、はたまた倉敷や居酒屋へ…。

まずは復習の意味を込めて朝比奈先生のプロフィルを凝縮してご紹介しよう。

朝比奈隆…1908年7月9日、東京生まれ。京都帝国大学法学部および文学部哲学科卒業。エマヌエル・メッテルに音楽を学ぶ。1936年、大阪で初めて指揮台に立ち、1940年には新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して東京デビュー。大阪中央放送局の指揮者を経て、戦時中は上海響、ハルピン響など主に中国大陸で活躍。帰国後の1947年、関西交響楽団を設立、1960年には大阪フィルハーモニー交響楽団に改組、亡くなるまで半世紀以上にわたり常任指揮者・音楽監督を務めた。

国内はもとより、ベルリンフィル、シカゴ響など海外の70近いオーケストラにも客演。文化勲章ほか受賞多数。…まぁ~この文脈からも凄さが伝わるけど、行間から聴こえてくる先生の喜怒哀楽で散りばめられた人生模様から、ヨッサンがマイクで収録した語る口の妙味は次回に。実は朝比奈家への“もらわれっ子”で幼少の頃は虚弱体質、喘息もち。みなし子になった…と思ったら…のお話など。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

195asahina

ヨッサン秘蔵の朝比奈隆写真集

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