おとなの文化村(916) 堺一文字光秀 田中 諒さん

今夜のお客様は大阪道具屋筋で包丁店「堺一文字光秀」を営む一文字厨器株式会社の三代目、代表取締約田中諒さんです。

田中さんは1985年大阪生まれ、奈良育ち。同志社大学政策学部を卒業後、当時電通グループで現在NTTグループの「サイバー・コミュニケーションズ」に入社。デジタルコミュニケーション領域に携わり、企業と社会、価値の伝え方について実務経験を積み、2016年家業へ戻り包丁業界の現場に立ち、販売の最前線に立ちながら「包丁」という道具と真摯に向き合っておられます。包丁を単なる調理器具ではなく「買った時より10年後が美しい、日常で使い手の感性を磨く道具」と定義し、その切れ味、使い心地、手入れの時間、背景にある思想や文化までを含めて伝えることを重視している」と語る田中さん。研ぎや使い方の講座、職人や料理人との対話、映像・言葉による発信を通じて、道具を介した学びと関係性の循環を実践。2024年から多機能スペース「一十一(いちとい)」を拠点に、食と道具、つくり手と使い手が交わる場づくりにとりくんでおられます。また、辻調理師専門学校にて臨時講師を務め、次世代の料理人にむけて道具との向き合い方を伝えています。こうした取り組みが評価され、2025年ICC Design & Innovattion Award アルチザン部門を受賞。ミッションは「使い手に完成を」、パーパスは「文化を興せ」。包丁を起点に、道具と人、文化とト日常が長く循環していく世界の実現を目指す「堺一文字光秀」三代目の登場です。

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おとなの文化村(915) なら燈花会 中野聖子さん

今夜のお客様はお隣り奈良からお越しいただきました。株式会社尾花 代表取締役、NPO法人なら燈花会の会監事、奈良県旅館ホテル生活衛生同業組合女性部あゆみ会会長、中野聖子(さとこ)さんです。

中野さんは昭和43年(1968年)奈良市のお生まれ。生家は大正時代から奈良市で映画興行をはじめた尾花劇場でした。この尾花劇場は昭和54年(1979年)にその幕を閉じ、二年後ホテルサンルート奈良として生まれ変わりました。同じころ、聖子さんは京都の学校へ通いはじめ、10年間京都で学び、平成3年同志社大学文学部卒を業後、損害保険会社勤務を経てホテルサンルート奈良へ入社。フロント勤務、企画業務等を経験後、平成23年(2011年)代表取締役就任。県外からお客様をお迎えする仕事をする中で、土地の歴史・文化・信仰を住民がよく知ることこそが奈良のおもてなしの根幹と考えるようになり、様々な地域活動に携わってこられました。平成10年(1998年)「なら・観光ボランティアガイドの会朱雀」養成講座一期生に、 平成11年(1999年)「なら燈花会」ボランティア、 平成17年(2005年)奈良商工会議所観光政策研究会などに参加し、「奈良まほろばソムリエ検定」人材育成プロジェクト発足に関わってこられました。 そして平成19年(2007年)NPO法人なら国際映画祭実行委員会設立、平成27年(2015年)NPO法人なら燈花会の会 会長就任、 平成29年(2017年)NPO法人なら国際映画祭実行委員会 理事長就任と活躍されてきました。また、 令和2年(2020年に)ホテル名をこの地にゆかりの「ホテル尾花」に改称。かつての映画館「尾花座」の名を復活させ、令和06年(2024年)ホテル尾花の月一上映会「尾花deキネマ」をスタート。明治42年(1909年)に歌舞伎も上演する「尾花座」として開業した芝居小屋を前身として、大正9年(1920年)桟敷席にスクリーンを設置、装い新たに映画館「尾花劇場」として多くの方々に愛され1980年に惜しまれつつ閉館した「尾花座」が復活したのです。しかし、今回のお話はそれだけでは終わりません。なんと尾花座・尾花劇場のルーツは「おとなの文化村」の本拠地、大阪ミナミ「難波新地5番町」にあったのです。ノイリン、ノグッタンの通った「大阪市立精華小学校・精華幼稚園」のお向かいだったとは・・・?さあ、中野聖子さんに登場いただきたっぷりと語っていただきましょう!

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おとなの文化村(914) 玉造・猫間川寄席席亭 小野裕司さん

今夜のお客さまは「玉造・猫間川寄席」席亭小野裕司さんです。

小野さんは1958年(昭和33年)大阪市東成区生まれ、実家はちいさなミシン屋さんでした。人を喜ばせたり笑かしたりするのが大好きで「ちょか」とか「いちびり」とよく言われたボンボンだったそうです。しかし基本的には真面目な性格、化学系の大学へ進学したものの試験管相手の味気ない毎日にウンザリし、自分には合わないと退学。大阪教育大学を受け直して大阪市立小学校の教諭になり、教師は天職だと思い日々楽しく過ごしていましたが5年目に両親が同時に病に倒れ、ミシン屋を継ぐこととなり泣く泣く退職。ミシン屋三代目社長となりました。幸運にも商売は順調で、冷暖房完備の工場・会社事務所・両親と同居するための居宅を一つにしたビルを新築。しかしご両親はそこに住むことなく相次いで亡くなられました。その後も業績は好調だったものの、ビル建設のための借金を返し終わったとたんに受注がなくなりミシン業は廃業。幸い全従業員さんの再就職先が決まったので、思い通りにならない自分の人生を振り返り「これからは自分の好きなことを仕事にして生きていこう」と決心。教師時代に覚えたパソコンで行う計算の仕事を本業とし、ビル1階の工場跡は多目的ホールに改装。大好きなミュージシャンのライブを始めとする面白いイベントを開催し、我が故郷「東成」を勝手に賑やかにしようと決意。2003(平成15)年4月、家業の「サンキューミシン」に因んで「さんくすホール」と名付けた多目的ホールをオープン。ホールは一般貸しの傍ら、フォークシンガーの加川良さんをこけら落としに、以降、大塚まさじさんや有山じゅんじさん、中川イサトさんなど、大阪ゆかりのミュージシャンを中心にライブを年に数回開催。コロナ禍まで順調に続いていました。そして2005年(平成17)年10月、ホール外壁に貼り出していた「加川良さんのライブ告知ポスタ」ーを見て、「こんな所に貸しホールがあるんや」と、落語家の桂文我さんが訪ねて来られました。「自分も以前から地域寄席をやってみたかった」と伝えると意気投合。トントン拍子に話が進み、年明けの2006(平成18)年1月27日に『第1回玉造・猫間川寄席』を開催。寄席の名はかつて近所を流れていて今は暗渠となった『猫間川』に因んで命名。毎月一回、会場設営や運営は奥様とお姉さんとの三人四脚で開催。桂文我さんが出演者と演目を決め、寄席の雰囲気を大切にと必ず生のお囃子が流れています。名ビラは全て元小学校校長先生がボランティアで協力。こうして始まった猫間川寄席は、途中コロナ禍による休演が計12回あったものの現在まで続き、毎回多くのお客様で賑わっています。昨年12月の第228回で満20年を迎え、いつの間にか大阪で開催される地域寄席の中でも最古参となり「第25回なにわ大賞」にも選ばれました。また、口演された落語のネタの数も多く、20年間で1133席が披露され、同じネタを複数の落語家が演じた場合を1と数えた純演目数は735席、735もの違う落語が猫間川寄席で演じられ、桂文我さんも「これだけの落語のネタがかかった落語会は、他にない」と語ります。「20年続いたのは、多くの方々の支えがあったからこそで、私一人では決して続けることは出来なかった。特に妻にはその承諾と協力がなければこの猫間川寄席は始まらなかったので、口に出して伝えたことはないが、本当に感謝している。小さな寄席だが20年続けて来て、ほんの少しだけれど、「東成」が賑やかになったかなと思う。また、大阪と東京にしかない、300年続く大衆・伝統芸能である落語にとっても、落語家さんの芸の披露の場を提供することで少しは貢献できたかな。これからも、体力と気力がもつ限り少しでも長く続けて行きたい!」と語る、席亭小野裕司さん、さあご登場です。

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