30数年前…“シュプレヒコー~ル!給料上げろ~、我々は闘うぞ~‼”絞るように張り上げたヨッサンの声が会社中に響き渡ります⁉(FM大阪労働組合副委員長もやりましたっけ)全面ストライキに突入すれば、スタジオ封鎖や座り込み。電波は生きていますから(放送しなければならないので)管理職はスタジオに缶詰になりながらレコードを流しています。(空の一升瓶がスタジオに置いてある…実はトイ…用??!)
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忘れもしない1985年5月20日。労働者にとっては春闘も終え、ベースアップを勝ち取って意気軒昂としている筈だった頃。組合は会社側との解決の糸口が見出せない…まさに泥縄的闘いの真っ只中。この日、急遽“本日午後1時30分まで時限ストライキ”に突入したのです。あの憧れのピアニスト、やっとの思いでセッティングが出来たアシュケナージとのインタビュー開始時間はまさに“午後1時30分”からザ・シンフォニーホールの楽屋にて。(心の中で葛藤…“アカン、時間に遅れてまうわ”“この際、スト破りしたろか⁉”)果たして…ヨッサンの到着まで別の取材班が場を繕ってくれていました。(あ~よかった)
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ウラーディーミル・アシュケナージ…1937年生まれ(旧ソヴィエト)、1955年のショパンコンクール(前回の内田光子さんと同じ)第2位。この時は鬼才ミケランジェリが審査員で、“アシュケナージがなんで2位やねん”と審査結果にサインしなかったとか。エリザベート王妃やチャイコフスキーコンクールで1位…こいつは只者ではない。(命を亡ぼす覚悟で)母国を捨て妻の故国アイスランド国籍を習得…現在はスイスに在住。
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アシュケナージのコンサートは何度足を運んだことか!彼の弾くベートーヴェンやショパンのLPは何度も針を落としたことか!(この懐かしい響きヨ)そんな彼に会える、インタビューが出来る!熱きヨッサンの気分の高揚感の膨らみは(針で一突きされたように)もろくもシュンタローになってしまいました。
A:アシュケナージ Y:ヨッサン
Y「お目にかかれて大変、大変嬉しいです」、A「(小声で、かすかに)サンキュー」、Y「(1番下の娘さん)ナーシャちゃんは元気ですか⁉」、A「サーシャです」(あちゃパー…機嫌悪そう…)、Y「(…)子煩悩な方だと聞いていますが、将来(あなたのように)ピアニストか音楽家にさせたいですか?」、A「別に…」(もうちょっと言い方があるやんか…)、Y「お父さんとしては、どういう職について欲しいですか?」、A「今、子供は5人いますが、特別にどうなって欲しいということはないです。いい人間になってくれれば…。」、Y「大相撲を応援なさってるとか?」
A「Yes‼(やっと少しトーンが高くなる)特に妻が好きで、そう、千代の富士がいい」Y「ホビー(趣味)は?」、A「ノー・ホビー‼」、「Why?」、「音楽家として忙しいので時間がないのです」(こりゃ話題を変えよう)、Y「ピアノを習っている日本の学生へサジェスチョンを与えるならば…?」、A「(なんともはや、そっけない声で)音楽を愛して、一生懸命練習して下さい」、Y「モーツァルトとベートーヴェンのコンチェルトの魅力の違いについて?」、A「(さらにそっけなく)2人の別々の作曲家の曲ですから、どういう違いがあるのか答えられません。」、Y「音楽以外の夢は?」、A「ドリーム⁉…家庭と音楽だけです」、Y「あなたにとって音楽とは?」、A「言葉ではいい表せないものです」
(彼のピアノは心地よく弾むのに、なんで会話は弾まんねん‼)
数分後、サーシャちゃんとのツーショットで、ヨッサンの重い心がス~っと溶けていきました。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
ヨッサンのインタビューに答えるアシュケナージさん 1985年5月
インタビュー後、愛娘のサーシャちゃんとのツーショット