197 サッカーでオリンピックに⁉ 朝比奈隆 ③

ヨッサンは小学校を4回転校した。アカンたれで虚弱体質(扁桃腺を腫らしては熱を出し)よく学校を休んだ。

そんなヨッサンが後年、喉を使う仕事=アナウンサーになるとは、当時はこれっぽっちも考えなかった。受験は自慢ではないが高校・大学と両手で数えても足りないくらい滑って転んだけど、入社は(難易度ジャンプを着地させたように)運がやって来た。

大学3回生の時、FM大阪でアルバイトをしていたヨッサンは“来週、試験を受けなさい”とお声がかかった。

後から聞くと、1年先輩のアルバイト・武田広さんが全国津々浦々の放送局を受けて短波放送だけ合格。そこへアナウンサーが欲しかったFM大阪が“ウチに来ないか!!?”と誘ったけど、当時、FM局は海のものとも分からないので短波に行った。(彼は結局7年で短波を退職。「堺まちゃあきのチューボーですよ」で“今週も街の巨匠に感謝”、「行列の出来る法律相談」では“ここでポイントを整理してみよう。夫の愛人に悩むK・ケイコは…”でお馴染みのナレーションとして大活躍だった‼)

そこで当時、武田さんと同じアナウンサー養成所に通っていたヨッサンを即戦力として採用してくれた。(以来40数年、まだマイクの前で喋っとる)

もし、武田さんがFM大阪を選択していたら…ヨッサンは足袋屋を継いでいたかも…武田さんに感謝!??

さて、前置きが長くなってしまった。(失礼!)我等がマエストロ・朝比奈隆先生も虚弱体質で小学校は転々。中学もあっちこっち落第。…が、脇の下どころか骨から脂汗を流した結果。超難関(全国から1000人近くの応募から80人しか入れなかった)旧制東京高校に合格‼それからというものは、羨望の眼で眺めていた“強い体”をも獲得していった‼スキーに乗馬、夏は登山、サッカーでは、な、なんと正選手に。それに誰もやりたがらない1500メートル走では記録も出したほど。

あの頃を振り返って、先生は語ります。

「ヴァイオリンは中学の時からやっていました。それは当時としては早い方ですね。第一、男がヴァイオリンをやること自体がもってのほかでしたから。中学や高校で、ヴァイオリン持って歩いてるのが恥ずかしくてね。だからヴァイオリン持って歩く時は必ずサッカーのボールを担いでね、文句あっかて。両方やってましたから。サッカーの道具を背負って、ヴァイオリン持ってりゃあ、文句言われないですよね。今の体は、その時に作ったんじゃないかしら」

いよいよ大学生活…朝比奈先生が選んだ道とは

「何人かと一緒に、京大へ行こうって言って。それとメッテル先生の指揮する演奏会を(東京で)聴いた印象が強くって、そのメッテル先生が京大の音楽部の指導をされてた事。それに、一度東京を離れたいという気持ちもあったんです。

結果、音楽学校出て指揮者になるんじゃなくて、京大法学部から阪急に入社してというのは…我々の職業だと、どうしても社会との接触する面が狭くなったり、途切れがちになったりするんです…その意味では、様々の人と知り合い、そして今も、お付き合いさせてもらってるのは、良かったと思ってます。音楽学校出て、派閥作ってというのは困ったもんですから、指揮者で京都帝国大学と言う派閥は無いですからね」

高校3年のサッカーの練習中に左ひざを骨折し後遺症がなかったら、先生も1932年ロサンゼルズオリンピック大会に学友と一緒に出場するチャンスがあったと仰った。もしそっちの道に進んでおられたら、我々は莫大な音楽の宝物(メダル)を眺める(聴く)ことはなかったかも知れない。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

197asahina

倉敷音楽祭の打ち上げパーティーで朝比奈隆さんと

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