ある大作曲家のお父さんのお仕事です…①物書き・出版業②領地管理人③警察書記・通訳④鉱山技術者から大工場の工場長⑤酒造業⑥宿屋兼肉屋⑦宿屋兼食料品店経営…お分かりですか…実は①シューマン②リスト③ワーグナー④チャイコフスキー⑤マーラー⑥ドヴォルザーク⑦ヴェルディが正解です。
三枝成彰著『大作曲家たちの履歴書(上)(下)』(中央公論社)を読み進めていくと“どないして、こんな有名な大作曲家になりはったのか⁉”“なんで家業を継がへんかったんやろ⁉”の疑問がとろ~っと解けていく楽しい読み物になっていますが…三枝さんご本人にスポットを当てて見ると、これまた“おもろい‼”
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S:三枝成彰、Y:ヨッサン
第1章(お父さんの舵取りで人生が決まった)…息子を作曲家にさせるため桐朋の子供音楽教室に通わせピアノのレッスンに。
S「(ピアノは)上手ではなかった。下手だった。好きではなかった」と語る三枝さん。
S「小学校…公立に行ってたんですけど、3年の時に担任の先生に(父と共に)呼ばれて…身体弱かったんですけどすごく…で、先生が“身体の弱い原因はあんたがピアノをやらせるからだ”“男の子がピアノなどやると結核になる”と言ったら、父は激怒。(その公立を)やめさせて、和光学園っていう私立に編入させたんです。それで和光学園は1時間目は(授業に)出なくていいと(いう条件で)入ったんですよ…朝、ピアノの練習をさせるために」
凄い親父や‼小・中・高校…この和光学園は自由な気風で、三枝少年のハートに様々な空気=教養を送り込んだのでありました。
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第2章(作曲家への道は…)
Y「東京芸大に1浪してお入りになった。その時には“自分は作曲の道を歩んでるんだ”と…」、S「思ってなかったですネェ~。作曲家なんて職業にはなりたくない…と思ってました。ホントに興味がなかったんです」
Y「信じられへん」、S「いや~男の子のやる仕事じゃないなあ」
Y「それでも芸大時代に作った曲って、結構あるんでしょ?」、S「ありますネ。大学2年で書いたのが、それが“作品1”楽譜になったんです。音楽之友社から。4年の時に“安宅賞”をもらった…ということは…大学を首席だったようです。でも好きじゃなかった…音楽」。いったいこったい、どういうこっちゃ!!?
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第3楽章(思わぬ落とし穴が…)
Y「卒業しました…メシの種は?」、S「すぐ大学院を受けたんだけど、落ちたんですよ!首席で出て」
Y「アレレ…」、S「英語の試験で、5点しか取れなかったんで、英語、独語…語学はまるでダメ」。オウム返しで覚えるのが苦手だったのかな⁉
S「で、大学院落ちて、ドイツに留学が決まったんですよ。ハノーバー大学も下宿も決まってて。でも、急に行くのをやめちゃった」
Y「行ってたら人生変わってましたね?」、S「そうですね、きっといいことなかったですね…我々の世代で池辺晋一郎(だじゃれの作曲家)も西村朗(大阪市城東区生まれ…お父さんは自転車屋さん。彼の小学校時代の同級生がやっている鴫野の癒しの館 蕎麦処“仙酔庵”そのうち、西村さんをこの欄で紹介しますネ)もそうですけど、留学した人でいい作曲家になった人はいないですね」
そう言えばあの芥川也寸志(文豪・芥川竜之介の息子)や武満徹(世界的作曲家)も行ってない。
S「外国行って“かぶれなかった”のがいいのかもしれませんね」
Y「ホンデ、大学院落ちた!留学やめた!どないなったんですか??!」、S「酒ばっかり飲んでました。飲んだくれ…毎日朝から飲んでました」。なんってこった…ヨッサンは三枝さんの一言一言を美酒のように飲み干した…と書きたかったのに。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
ピアノを弾きながら作曲する三枝成彰さん