なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(017)
あ~ァ、原稿用紙にパ~ッと花が咲くように文章が書けたらナァ…とため息をついてたら、天井(のモニタースピーカー)から“大阪万博40 周年を記念して…” とFM大阪のお知らせが降ってきた。あの時、あの頃、F M大阪も開局したけど、新聞を賑わしていたのは“エキスポ70 ”。ヨッサンも、色んなアルバイトに励んでいましたっけ…。
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全国各地から“エキスポ70 ” 目当てにやって来る団体さん客の誘導・引率係り。添乗員のアルバイト。日本交通公社のマーク入りの名刺を携えて(“絶対、アルバイトやゆうたらアカンで”と念押しされて)社員ぽく振舞って、修学旅行生(中学担当)の引率係…富士五湖めぐりを月に2、3度っていう時もありました。生徒達の自由時間に、ヨッサンはポチャッと可愛いいバスガイドとお散歩したり…確か奈良交通やった…何でこんなことはよ~覚えてるんやろ!?
もし、先生方のお弁当を熱海の駅に置き忘れてなかったら、宿舎でバスの運転手らと酒飲んでドンちゃんしてなかったら、高校の修学旅行、そして海外旅行のツァーコンダクターになって…FM大阪への道筋が変更されていたかもしれません。
アルバイトといえば、“どんなアルバイトをしたことがありますか?“の質問をジャズ界のスーパースターに恐れ多くも投げかけたことがありました!アルバイト情報誌がスポンサーの番組用インタビュー。そのお方の名はハービー・ハンコック!
ハービーは1940年生まれ…ということは今年70 歳。ありゃ…ええお爺ちゃんや。
7歳でピアノを習い始めた彼は、な、何と世界のトップオーケストラ“シカゴ交響楽団”とモーツァルトのピアノ協奏曲を共演。もし高校時代にジャズ狂にならなかったら…クラシック界の名ピアニストになってたかも。そうなるとジャズの巨人マイルス・デイビスとの出会いも名曲“ウォーターメロン・マン”の誕生も、グラミー賞11 個の受賞もなかったんです。
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そんなハービーにヨッサンがハマッタのは1977年から始まった万博お祭り広場特設会場での野外ジャズフェスティバル“ライブ・アンダー・ザ・スカイ”。以来、夏に響きわたる“音のシャワー”を浴びるのがクセになっていたハービーと遂にご対面!あれは1985年のことでした。
ハービーは、過去の思い出を手繰り寄せるかのようにニコヤカに語ってくれました。
「大学の1回生の時、寮の食堂(カフェテリア)で仕事をしたなァ。ウェイターをやったり、皿洗いもしたっけ。そうそう… 夏休みになると、必ず郵便局で郵便物を運ぶ仕事もやったネ。それから高校の時は、ストアのレジ係りも。そこのオーナーが悪い人で、実際に買った数より多くなるように操作しろ…なんて言うんで“僕はそんなこと出来ないョ!” と文句をつけたら、喧嘩になった。その当時いくらもらったか、もう忘れたけど、夏休みは、お金もらったら、ナイト・クラブのコンサートのチケットを買っては、よく行ったネ。もしミュージシャンになってなかったら?大学1~ 2年と、エンジニアリングの勉強してたから、電気関係の仕事についてたかもしれないナア」。学生時代の記憶が今開く花のような新鮮さで蘇ってくるようでした。
♬ そしてラスト・クエッション。“ホワット・イズ・ミュージック・トゥー・ユー?”ハービーは答えてくれました。「音楽は人間の生き方を表現するクリエイティブな方法の1つだ」と。メロンメロンになってしまうこのお言葉…さすが、ウォーターメロン・マンや!ハービーが子供の頃に耳にしたスイカ売りの声をテーマに作った「ウォーターメロンマン」はヨッサンが大好きな名曲です。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
ハービー・ハンコック(1985年)