196 幼年期に朝比奈家の養子に 朝比奈隆 ②

1983年春…制作部長に“今度、朝比奈隆先生音楽生活50周年をテーマに文化庁芸術祭参加の特別番組を作らせて下さい…”と企画書を見せたら“えらい、大風呂敷広げてからに…絵に書いた餅…ちゃうか‼?”と鼻で笑われた。“ちゃいます!絵に書いた餅を食べるんです‼(企画書は実現するもんです)”部長は予算のことは聞かなんだ。なんせ取材・編集・録音・ナレーション…=ヨッサン=安くつく。

さ~て、春の名残が感じられる頃、いよいよ朝比奈邸に伺う。阪急六甲駅で降りて、ずしりと重いデンスケ(録音機)と今回は5インチテープが10本以上担いで(なんせ、朝比奈先生はどんだけ喋りはるか予想がつかない)でタクシーに“よっこらしょ”…“朝比奈隆さんのお家お願いします!”“ハイ、ハイ、ハイ(ハイは1回でええのに運転手さんも何故か嬉しそう)”“朝比奈隆さんのお家とゆうだけで皆さんご存知なんですか⁉”“ハイ、ハイ、ハイ、(阪急タクシーの運転手仲間)皆んな知ってます”“よく朝比奈先生を乗せはったこと…”(まさに間髪を入れず)“もう、何回も何回も!”…会話が弾む…“この近くですか?”“そうです。このお家ね!このお家ね‼”もう、インタビューがうまくいく気分になってきた…ベルを押す指も弾む。

1983年…その時75歳を迎えるマエストロ。長きに渡る人生の遥昔から伺った。(ヨッサンはただただ相槌を打つばかりなので、いつもの Y:ヨッサンはカット)

「僕は虚弱児童でしてね。喘息持ちで。虚弱児童なんて言うと、皆んな笑うんですが。東京の幼稚園行ったんですけど、父(鉄道の役人)が、どこか田舎へと言う事で、(神奈川の)国府津(こうづ)へ、きぬと言う女の人を付けて子供だけで行った訳です。死んでもいいから、親のそばへ置いといてくれたらと思うんですが、まぁ養父母ですので、他所様の子供を、間違いがあったら大変だと言うのもあったんでしょう。

で、小学校も国府津の…裸足で学校に来る子ばかりで、いい肴(いじめ)になっちゃう。親父が買ってくれたランドセルの中に砂を入れられたり、靴を埋められちゃうやら。だから僕もせいぜい草履か裸足でね…その1年後小田原の小学校へ転校。父は教育パパなんですわ。そっちの方がいいと、きぬと二人で住んで…」

60何年も前のシーンを、あたかも昨日撮した映像を噛み砕いて説明するかのような朝比奈先生。「それから。父が鉄道関係の会社の重役へ…ま、今で言う天下りですね。それで麻布の三河台にあった大きな家を借りて、東京の小学校へ転入しなさいと言うことで、そん時初めて親の家へ一緒に住んだんです。養父母の家へ。嬉しかったです。つまんないですからね、独りで居るってのは…」

先生から音楽の話はまだ聞けない。

実は朝比奈先生は小島家から朝比奈家へのもらわれっ子(養子)だった。(小島家には子沢山、朝比奈家は子供がいない。朝比奈先生は小島家から来たとは知らなかった)そんな朝比奈家の父親は朝比奈先生が16歳の時に亡くなり、母親も数年後に亡くなり、先生は天涯孤独(みなしご)…と思いきや、当時、近所で唯一、よく遊びに行ってた小島家の(お兄ちゃん、お姉ちゃん、年下のヨッちゃんがいる)叔母さん“里”に呼ばれた…“よ~く、お聞き!実はあんたはウチの子なんだよ”晴天のヘキレキとはこのことだった。

実は後年、先生の本当のお父さんの名は小島ではなく渡辺嘉一という日本土木力学の父と謳われた日本の近代化になくてはならない方だと知った。そして実の母は??!…中丸美繪著「オーケストラ、それは我なり」〈文芸春秋〉にお任せする。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

196asahina

幼年時代の朝比奈隆さん。朝比奈家の養母と一緒に

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