148 奔走する母、反発する息子 西村朗 ③

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(148

ヨッサンのお祖父ちゃんは根っからの明治人。自ら足袋屋を起こして一時代を築いたおヒト。ある日、放送局(FM大阪でアナウンサー)への就職が決まったことを伝えた時の第一声は目をひん剥いて…“芸能界なんか行くな‼”…であった。数ヵ月後、孫の声(ヨッサン)に耳を傾けるお祖父ちゃんの姿があったと聞く。(やっぱり…孫のことが気になるんや)

作曲家西村朗(あきら)さんのお話が続きます。

城東区鴫野の自転車屋を経営するお父さんと城東区役所に務めるお母さんは、朗少年から“作曲家になるねん‼”と聞いて目が点になった。朗君の目は一点の曇りもない。“よっしゃ!ピアノがいる”とお母さん。心斎橋のミヤコ楽器で“この子、作曲家になりたいから、ピアノ買うから先生教えて”“ええ先生(歌謡曲・演歌系)います“と店員さん…そこまで前回ご紹介しました。

さあ、そこでミヤコ楽器で契約したのか⁉

N:西村さん、Y:ヨッサン

N「そうならなかったのはネ、三木楽器にも行ってみたんです。“この子、作曲家になりたいから、(ここで)ピアノ買うから先生紹介して頂戴”母は(ミヤコ楽器と)同じ台詞を言ったんですが、たまたま営業主任の川畑さんが出かけていたので、“戻ってきたら連絡させます”てなことで、じゃ近々、ミヤコ楽器でいいかな…と。次の日、家でレコード聴いていたんです。バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番を、大好きなもんで」

Y「は~ァ??バルトークなんて小学6年生で聴くもんちゃう。なんちゅうガキや⁉」

N「だいぶ、聴く内容が変わってきてるでしょ。2階で大きな音で聴いていたら、そこへ三木楽器の川畑さんが家まで来てくれたんです。上(2階)から流れるバルトークがかかってるのを聴いて“あッ、この子がやりたい作曲というのは、どうもクラシックの延長にあるようなもんだろう”と分かってもらったんですね。それで大手前高校の下村米太郎先生、立派な音楽主任(東京芸術大卒)を紹介してくださったんですよ!これが第一歩でした」

もし、あの時、ミヤコ楽器でピアノを購入し歌謡曲・演歌系の作曲の先生を紹介してもらっていたら…。今頃、朗少年は大ヒット曲作りの名人になっていたかも。人生のターニングポイント…運命ですね。

さァ~て、お母さんは奔走します。色んなとこへ(音楽関係も含め)相談しにいきます。お母さんは迷います“どないしょ??”

N「母は有力な市会議員の先生を知ってたもんですから、大阪の教育長の所へ連れていかれたんです。(大阪市立)東中学に通っていたんですが、そこへタクシーで母が乗り付けてきて、校内放送で“すぐにこい”、タクシーに乗せて教育長の所へ、ひろ~い部屋に凄い立派な人がど~んといてね。“君、作曲家になりたいそうだね、ま、音楽が好きなのは大変結構だから趣味でやらんか”と、“音楽家になるには、ちょっと遅いかも知れないから趣味でやりなさい”ってね、すごく諭されたんですよ。(むかむか、マグマが噴火するかのように朗君は)“教育長だからと言って、音楽の専門家ちゃうやんか‼”僕、凄く反発感じましてネ。その母の権威主義にね…“家出したろか”と思ったんです」

さあ、朗君の夢は儚くも霧散するのであろうか⁉その息子の様子を見ていたお母さんは“これはやるしかない(作曲家への道)かな”と背中を押し出してくれた…いよいよ下村先生に作曲を学ぶ朗君の始まりです。

ヨッサンが教育長なら“三振してもエエから思いっきりバット振ってこい!”ってゆうやろナ‼それが教育~ちゅうもんやで。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

148nishimura

音楽監督を務める「いずみシンフォニエッタ大阪」の定期演奏会で西村朗さん(左)。右は指揮者の飯森範親さん (2月2日、いずみホール)

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