昨夜、今回の原稿を書き終えて、安堵の気分で夜のTVニュースを見ていたら“ストックホルム発、スウェーデンの王立科学アカデミーは8日、今年のノーベル物理学賞は…”とアナウンサーが紹介していた。“あっちゃ~、こりゃ今回の原稿はやり直しや!!?”
なんで、(はよ原稿書いて編集長に喜んでもらおうとおもてたのに)ヨッサンの思いを変更させたのか…
それは64年前までさかのぼります。1949年のノーベル物理学賞に湯川秀樹博士が日本人として初めて受賞。このニュースは戦後復興の日本人に更なる勇気を与えてくれました。(晩年は核廃絶を訴えた方で決して忘れてはならないお方なのです。1981年74歳で没)
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1949年12月10日、ノーベル賞の厳粛な授賞式を終え、記念の晩餐会は和やかに進み、受賞者の方々へのお祝いの音楽としてストックホルムフィルの演奏が奏でられたのです…その受賞者の方のお国自慢・国を代表する音楽が。さ~て、湯川博士に捧げられた日本を代表する音楽とは…
博士は感動の心に包まれました。“日本の香り漂うこんな素晴らしい音楽が日本にあったのか⁉”そんな疑問も湧き上がってきたのです。
晩餐会が終わって湯川夫人は主催者に“さっきの日本の曲はなんていうんですか⁉”答えは“タケトリモノガタリ。コーイチ・キシ”…それを聞いた夫人は“あ、あの彼女のお兄さんの音楽だったんだわ…”と感動で声にならなかったと言われています。
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我等、大阪人が自慢すべき現代のヴァイオリニスト…松浦梨沙、NAOTO、高木和弘と何回かに渡って紹介してきました…が、このヴァイオリニストを決して忘れてはいけません。その名は「貴志康一」。
ヨッサンの手元に貴志康一が学んだ甲南学園制作のCD「竹取物語・貴志康一作品集」があります。手に取るだけて薫ってきそうなこのジャケット。
そのライナーノートに「貴志康一は、1909年3月21日に大阪市の桜の宮に生まれた天才的な音楽家である。1916年頃から芦屋に住み、11歳の頃からヴァイオリンを学んだ。甲南高等学校からジュネーヴ国立音楽院に留学、1928年に卒業した。その後、ドイツとわが国を往復し、ヴァイオリニスト、指揮者、作曲家として驚異的な活躍を見せたが、盲腸炎をこじらせ、1937年11月17日、わずか28歳の若さで急逝した」とあります。
実は、康一が生まれたのは吹田市の母方の実家、西尾家。1ヶ月後に現在の都島区の貴志邸に移ったのです。その次の年、長女・文子(後年、山本あや…1910~2003)が同じく西尾家で誕生しました。
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話を1949年のノーベル賞の晩餐会に戻しましょう。演奏された貴志康一作曲の「竹取物語」は1934年にドイツで出版されはしましたが、日本では演奏されることなく、開花することはありませんでした。
そんな曲が晩餐会で取上げられた…ということはヨーロッパ人の心に(康一が亡くなって12年も経つのに)彼の音楽が息づいていた証だったのです。そして湯川夫人が驚嘆したのは貴志康一の妹・あやさんこそ夫人の幼稚園、小学校と女学校時代を過ごした同級生・親友だったのです。まさに奇縁!こんな筋書きのないドラマってあるんやネ!!?
帰国後の祝賀会で、湯川博士はあやさんから手渡された竹取物語の楽譜に、“ストックホルムにおけるノーベル賞受賞後晩餐会席上、本曲が奏せられた記念として”湯川秀樹…こう認めたのでした。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
貴志康一 写真提供=甲南学園貴志康一記念室