なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(010)
“ともちゃん!あんた歌うまいから歌謡学院に行ったらどや⁉(ともちゃん=ヨッサン)”
お婆ちゃんによく言われた。カラオケ道場では即、初段に。(ボトルキープ無料)“ヨッサンの後は歌いにくいワ”とカラオケルームで言われたもんや! ま、それなりに上手かったんでしょう。
あれは、中学2年生の休憩時間…“潮来(いたこ)の~伊太郎~チョッとみな~れば~…” チョッピリ小首を傾け、軽く右の手を握りながら腰にあて、声は鼻にかけながら「潮来笠」の一節を何気なく口ずさんでいると…クラスメートの藤原弘子さん達が“ホンマ上手い!声も似てるワ~‼” このひと言が、ヨッサンを橋幸夫狂に染めてしまったのです。
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そう、1960年(昭和35 年) 橋幸夫17 歳、ヨッサン13 歳の時でした。以来、「潮来笠」から始まって「江梨子」「いつでも夢を」「舞妓はん」…月々のお小遣いは橋さんのレコード代に消えていきました。だから今では懐かしい安もんのポータブル蓄音機と橋さんのシングル盤は僕の宝物なのです。
そして親父にせがんで出掛けたのが千日前の「大劇」、“新春、橋幸夫ショー”。それに……中略……あれから山を越え幾度か川を渡り、時は流れて山川万里。(急に難しい言葉を使いなさんな…と編集長の声が聞えてきそう)マスコミ人間になって、いつかは我が青春のシンボル“潮来刈りのお兄ちゃん”に会える日を楽しみにしていました…心の引き出しの片隅に。
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な、何と入社11 年目にして、その引き出しを開けることが出来たんです‼もう、我輩の気持ちは“川に浮かぶ卵”のように“ウキウキ”気分で浮かれていましたっけ…。
東急ホテルの一室での橋幸夫さんとのインタビュー。一瞬のうちに中学生時代のあの頃にタイムスリップしてしまったのであります。…物真似が切っ掛けでファンになったこと…小遣いで橋さんのシングル盤を30 数枚買ったこと…当時、ラジオで放送していた「全国歌謡ベストテン」に聞き入り、日記帳に毎週毎週№1から№ 20 位までを克明に記入。橋さんの曲が何位と何位に入っているか一喜一憂したこと…などを立て板に水のごとく喋くりまくるヨッサンを、橋さんは驚きと呆れ顔で聞き入っていました。(お仕事、お仕事の影の声)
さて、インタビューを進めていくと、橋さんから驚くべきことを教えられました。
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1950年代、ロカビリー。ウェスタンカーニバル全盛の頃、中学2年生の橋さんは作曲家・遠藤実歌謡学院に通っていました。“この子が非行に走らない為に通わせた”という両親の願いが、今日の橋さんのスタートだったんです。予科~本科~研究科と3年間皆勤だった橋さんも、ようやくオーディションを受けるほどの実力がついてきました。歌謡学院の先輩、こまどり姉妹(ありゃ、りゃ…懐かしい…‼)はコロンビアに合格。“よ~し、まずは遠藤実先生が専属のコロンビアのオーディションにアタックだ” の願いも虚しくあえなく三振。しかし、橋さんは、ビクターのオーディションに合格したのです。そこで出会ったのが名作曲家・吉田正さんでした。これが1960年(昭和35 年)1月のこと。その4ヶ月目に“潮来笠” でデビューしたのです。
もし、もしもですよ皆さん! 橋さんが“コロンビア”に合格していたら、何と…芸名が“舟木一夫” と決まっていたんですって。本名:橋幸男、芸名: 舟木一夫…が。
橋さんは語ります… “ デビューのころは1にも2にもまず運。3か4で実力。5か6で人間性ですネ。大人になると、この逆ですけど…”なるほど、運は天に在り…か⁉もしヨッサンが歌謡学院に通っていたら…今頃は⁉どやろ??
6月18 日、橋幸夫さんの芸能生活50 周年記念コンサートが、NHKホールで開かれます。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
ヨッサンの宝物、橋幸夫さんからいただいた直筆色紙