180「夭折の輝石」を架空特別番組で 貴志康一 ④

これは架空特別番組の台本です。ヨッサンがインタビューする方はもう今は亡き方々ですが、お願いして現世に蘇って頂きました。(だから実際に放送は出来ない訳です)

1987年雨上がりの甲南学園「貴志康一記念室」で交わした日下徳一室長との果たせなかった約束でもあります。大阪人なら、否、関西人なら、いやいや日本人ならば決して忘れてはいけない作曲家・指揮者・ヴァイオリニスト・映画監督…貴志康一。あまりにも疾く駆け抜けた彼へのオマージュだと思って聴いて(読んで)下さい。

A:山本あや(貴志康一の妹1910~2003) Y:ヨッサン

汽笛(効果音~)Y「分厚い鉛色の雲にぶつかるかのように汽笛が鳴り響きます。船上にたたずむ男の子の目に、彼を見送る父・母・6姉妹・弟・父の友人達、男の子の学友達…みんなの頬に、涙がぽろッぽろッところげるように落ちていく…。1926年12月9日。欧州航路船1万トン級“鹿島丸”に乗っている少年はたった17歳で40数日間をかけてヨーロッパ1人旅に出掛けるのです。少年の名は“貴志康一”。彼の手にはこの日のために創られた宮本金八制作のヴァイオリン当時のお金で1000円(入浴5銭、清酒2円7銭、葉書1銭5厘…計算して下さい。後に6万円もする名器ストラディバリウスを購入)を携えての音楽武者修行。“僕はヴァイオリンを極め、名手になったるんや‼”

架空特別番組“夭折の輝石・貴志康一物語”今は亡き貴志康一ゆかりの方々の証言で綴っていきましょう」汽笛(効果音…去っていくようにオフ気味に)

Y「山本あやさんにお伺いします。1987年。“でーやんの音楽横丁”でお兄さん(貴志康一)の特集を放送しましたら、あやさんは早速に“嬉しい”と言って日下徳一室長にお電話されたそうですね⁉」

A「はい!番組をお聞きの多くの皆様に、兄のこと、“貴志康一記念室”を知っていただいて大層嬉しゅうございました。あの記念室は私が北畠から宝塚に引越した1976年に、手元にあった兄の自筆楽譜やドイツで出版された著作物、ベルリンフィルを兄が指揮したレコード、映画のシナリオや、もう抱えきれないほどの所蔵品を兄が学んだ甲南学園に寄贈させていただきました遺品の数々でございます」

Y「あの時、私が訪れた時に拝見したお兄さんの絵(小学6年)に驚嘆したり、ドイツの家庭向け婦人雑誌に、日本の四季の移ろいや古来伝わる習慣、古き良き日本文化などについて寄稿されて(日本語やったんで)読むことができました」

A「兄の夢は“大阪を音楽の都”にしたい‼兄はヴァイオリン演奏家だけでなく作曲家としての作品には“道頓堀”“花見”“淀の唄”“赤いかんざし”“かごかき”など、大阪を、そして日本の情緒が湧き出ていますでしょ!!?その伝統や文化をヨーロッパや世界中に広める気持で書いたんですヨ」(Y「どっかの政治家達とえらい違いや!それと康一が親交のあった20世紀、否、今もなお最高の指揮者・フルトヴェングラーの書き込みが入ったスコアの数々をあやさんは大阪府立図書館に寄贈したら紛失してもたらしい。どあほ」…と心の中でぶつぶつ)

Y「小さい時のお兄さんとの想い出は⁉」

A「兄はお花見やお祭りや人の賑わいが大好きでして、丁度、桜ノ宮の造幣局の向かいに大阪都島のお家(うち)がありましたから、お花見やあっちこっちよく行ったもんです。それが後の“赤いかんざし”や“かごかき”に結ばれていくんです」。康一作曲の“赤いかんざし”…涙に濡れて天神祭のかがり火を…浪速娘の初恋心の歌が流れます。

次回は、なんでヴァイオリニストを目指したか⁉などなど。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

180kishi

ヨッサンも行った生誕100年記念コンサート。指揮者小松さんと、道頓堀400周年で貴志「道頓堀」演奏をと盛り上がったけれど、小松さんは帰らぬ人に。

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