179 画家をあきらめ、音楽の世界に 貴志康一 ③

“カラン~コロン…”呑気に歩く下駄の音が響く。“カラガラ…”戸を開ける音。間髪をいれず“で~やん!こんばんは(ベタな大阪弁)”奥から“よ~、ヨッサンか⁉はよあがっといで(より臭い大阪弁)‼”戸が閉まる音。虚を突くようなテーマ音楽(毒蜘蛛の解毒剤)にのせて“過ぎていった昨日の余韻と始まろうとする1日への予感が交じり合う午前2時。音楽横丁…”のナレーション。

1980年代、関西の音楽ファンには、FM大阪の番組「デーヤンの音楽横丁」は真夜中にもかかわらず多くのクラシックファンのハートをギュッと掴んではなさなかった。いや、クラシックファンでもない人が、いつの間にかクラシック狂になってしまった名番組だった。

歯に衣着せぬ音楽評論家・出谷啓氏が横丁のご隠居(デーヤン)、横丁の若い衆・吉川智明(ヨッサン)が丁々発止の大阪弁によるクラシック音楽談義。クラシック雑誌「レコード芸術」の読者交換欄に、よく“大阪で評判の「デーヤンの音楽横丁」の同録求む!”東京やエリア外の読者からのオネダリが載っていましたっけ。関西フィルの事務局長だったNさんや大阪交響楽団のIさんは“この番組に刺激されてこの業界に入ってしまった”と懐柔する程インパクトのある番組だった。

そんな横丁の若い衆(僕ですよ!ホンマに若かった頃)が、デンスケ担いで(山登りのように)芦屋市山手町の甲南高校「貴志康一記念室」を目指したのは1987年の梅雨時・・・傘に弾ける雨音が心地よかった・・・初めての出会いが待っているからか。記念室長の日下徳一さんが温かく迎えて下さった。

貴志康一(1909~1038)…わずか28年の人生を駆け抜けた夭折の天才音楽家。作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト、映画監督…。

部屋に入って驚いた。あるわ、あるわ康一の自筆譜の数々、ドイツでの出版物の多い事。貴重なSPレコードや何と映画のシナリオがノートから溢れ…日下さんの口調がなめらかに流れていきます。“これはネ、吉川さん。康一が小学6年頃に描いた絵なんです”

声が出なかった。

“彼は画家になりたかった時期があったんです。しかし…色盲だというとが分かって断念しました”そうか、その傷心を乗り越えるために彼はヴァイオリンの音色を極めたい!音楽の世界を深めたい‼と思い、遂にヨーロッパに渡ったのか⁉日下先生に番組用に貴重なLP(貴志康一作曲:ヴァイオリン協奏曲・朝比奈隆指揮・大阪フィル・辻久子のヴァイオリン)をお借りして美味しい空気を吸いながら学園を下っていった。

1987年8月13日放送「デーヤンの音楽横丁」特集タイトル“彗星の人・貴志康一を聴く”は貴重な音源とともにオンエアされました。

その数日後、ヨッサンあてにハガキが届いた。

「“デーヤンの音楽横丁”拝聴いたしました。なかなか面白い構成になっていましたね。山本あやさんも聴いてくれ、深夜に嬉しいといって電話をくれました。小石忠男さん(音楽評論家)にも言っておきましたので聴いてくれたかと思います。“例の番組”企画が通りましたら協力いたしますので、ご連絡下さい。出谷さんによろしく”日下徳一」

(山本あや:康一の妹 康一の宝物を寄贈 小石忠男:康一を世に知らしめた音楽評論家)

この“例の番組”とは「特別番組~貴志康一物語」…出演:山本あや 朝比奈隆 小石忠男。貴志康一にまつわる証言を絡めた企画。しかしヨッサンはこの特番を制作することなく月日が流れてしまったのです(みなさん鬼籍に入られてしまったのだ)。痛恨の落し物をしてしまったヨッサン。次回この紙面をお借りして架空特別台本にしてみたい。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

179kishi

「デーヤンの音楽横丁」(1980年代)の収録風景(右からヨッサン、デーヤン、指揮者の小林研一郎さん

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