037 5年目にヒットした「ヨイトマケの唄」 美輪明宏

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(037)

「(小柄な私が)大きく見えるのは、舞台で意識しているの。たとえば、500人の劇場で演じる場合は1000人のお客様がいらっしゃる。1000人なら2000人のホールだという気持ちで演技するんです。」… そうか‼それで大きく見えるのか…目から鱗、開眼。

以来、ヨッサンは結婚式の司会をする場合も、この言葉を頭に叩き込み、100人のお客様なら200人に向かって(いる気持ちで)披露宴を盛り上げていった…ら、何と、ホテルのギャラランクはアップ・アップ‼RホテルもNホテルも最高ランクまで上り詰めたのであります。(…が、ラジオ短営局の悲しさ、ラジオ・テレビ兼営局の顔出しの有名局アナにご指名がいくので、ヨッサンにはなかなかお鉢が回ってこず)

そんな名台詞を語って頂いた方を東京は世田谷のご自宅に訪ねたのは1976年6月14 日のこと。ベルサイユ宮殿を思わせるお宅。紫のロールスロイスがデ~ンと待ち受けているではありませんか。チャイムを鳴らして…現われたのは160センチあるかないかの小柄な素顔の端正なマスクの美男子でした。

美輪明宏さん。(当時42 歳になったばかり)中に入って目に飛び込んできたのは天草四郎の肖像画。(美輪さんは天草四郎の生まれ変わりだと言われていた)それに西洋風のシャンデリアや照明やテーブル、明治の鹿鳴館風の室内インテリア、3、4人も寝ることが出来そうなビッグなベッド。すべてが外国物だとか。トイレを借りたら、京都銀行のCMのような、なが~い、洗面化粧台の奥に様式トイレが…唖然!!?ため息と涎(よだれ)が出そうなほどの美しさにこちらも幸せ気分。

お待ちかね、インタビューは勿論“ヨイトマケの唄”について…

「僕の作品の中に、作詞・作曲したのも随分たくさんあるんですが、自分の作品だけ集めたLPを何枚か出しているその中の1曲だった訳ですよ。あれはね、昭和35 年(1960年)ぐらいに作って、ちょっと2~3回人前で歌ったんですが、“と~ ちゃん(父)のためならエンヤコラ”と言ったら、みんな笑い出すんですよ。恥かしいんで、厭なんで最初引っ込めていたんですよ。

たまたま、昭和39 年のリサイタルの時にやったら、雪村いづみさんとかテレビ局のディレクターやなんか来てて、これは絶対にたくさん歌うべきだというんです。そうかな…と思って、昭和40 年に出したわけですよ。それでテレビでやったら異例の反響ということでアンコール。お陰様で5年目でヒットしてやっと日の目を見たんです。」

ヨッサン「作詞はどういう時になさったんですか?」

美輪「昭和32 年に、ご存知ないでしょうけど、“メケメケ”という歌がヒットしたり、色んなことがあって、スターになれて、それから昭和35 ~6年ぐらいからおかしくなって、つまり落ちぶれたとかヘチマだとか、週刊誌に過去の消えていたスターだとか言われて、また経済的にも大変だったし、家中養っていたし、つまり飢餓状態にあった訳です。いろいろな意味でその時にたくさんの作品が出来た訳です…母が子を思い、子が親を思う、色々なエピソードから色んな意味を込めて作った歌がそれだったんです」

外国には作詞・作曲をして自分で歌うという自分のイデオロギーを持っている歌い手が多いけど、当時の日本では作詞・作曲の大先生に口移しに歌わされ、歌舞伎の型と同じように、ただ教えられ鍛えられていた。(そうではなく自分の創作で)日本でもそういう歌い手が日本の土壌の中から出てきて、もっと深いところで作ってもよかろうと思った美輪さん。シンガーソングライラーの原点がここにありました。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

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美輪明宏さんの全曲集CDジャケット

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