178 阪神間モダニズムの名匠 貴志康一 ②

寝耳に水…とはこの事か⁉この間(10月18日)まで大阪歴史博物館で開催されていた「特別企画展・生誕100年記念~織田作之助(1913~1947)と大大阪展~」我等大阪の誇る作家。とはいえ、FM大阪の受付嬢や毎日通うニュージャパン健康クラブの受付嬢達やメンバーのおっちゃんおばちゃん数人に“織田作之助って知ってる⁉”と聞いても“さァ?”“あのNHKドラマ夫婦善哉書いた作家や‼”ゆうたら〝あ~ァ…?”と自信のなさそうな頷き方をされた。

その織田作の展示品の数々…初版本、自筆原稿、彼の身につけていたマントや愛用のステッキ…を舐めるように眺める方々が多かったのでひと安心。その期間中に講演会が開かれ、ヨッサンは12日に(あろうことか)講師を依頼されたのであります。タイトルは「ラジオ放送作家織田作之助―BKドラマ・音楽再現~織田作の音楽番組・大澤壽人と笹田和子~」

わたしゃ民放FMの人間でっせ。40数年お仕事してるけど、JOBK…NHK大阪中央放送局、それも戦後すぐのことなど“わかりゃ~せん”。どこかの方言まで出てきそうだけど…お勉強して講話しましたヨ!BKは“馬場町の角にあるから”BK。そんなダジャレを交えながらの1時間(正確には1925年に大阪天王寺の上本町9丁目にまず開局。東京がA、大阪がB、名古屋がC)。

織田作の原作が川島雄三監督により映画「還ってきた男」のタイトルで公開されたのが1944年。その音楽を担当したのが大澤壽人(1906~1953)。これがご縁で織田作・大澤の交遊が始まりBKで顔を合わせるようになり、原作・脚本が織田作、作詞が竹中郁、作曲が大澤壽人による音楽放送劇「瀬戸内海」が出来上がったんです。その頃、BKに出入りし毎週全国放送で歌うソプラノが笹田和子…彼女に“ホの字になった織田作はこの「瀬戸内海」の中にもさりげなく笹田和子が歌う場面を作ったり、彼女のために音楽番組を構成、タイトルは「ショパン物語」。(ショパンも織田作も喀血の病で30代で亡くなる運命)片や大澤壽人も織田作亡き後、指揮者として笹田和子をソリストに迎え名唱の花を咲かせていますが…6年後に没。

この作曲家・大澤壽人…彼のお父さんは超有名な“神戸製鋼”の創業者の一人で芸術を愛するお方。壽人は幼い時から青春時代とたっぷり音楽を享受。アメリカへ渡り作曲法などを学んだ彼は日本人として初めてアメリカ5大オーケストラの1つ“ボストン交響楽団”を指揮。膨大な作品を残した…が、彼の名は歴史に埋もれてしまったのです。

そんな大澤壽人、詩人の竹中郁、画家の小磯良平、それに貴志康一(1909~38)こそは、明治末期から第二次世界大戦までの約30数年間、阪神間(神戸から尼崎までの六甲山系)に勃興した文化人達の中心人物で、「阪神間モダニズム」と呼ばれていました。(一度、“阪神間モダニズム”で検索してみて下さい‼阪神間の主な芸術家のトップに記されたのが“貴志康一”。以下、谷崎潤一郎、朝比奈隆、竹中郁、小磯良平、橋本関雪…と、名匠の名前がズラリ)

それぐらい凄い貴志康一…若きヴァイオリニストとして、作曲家として、指揮者としてもヨーロッパでも活躍した彼がたどった=残した宝物は、今、甲南学園「貴志康一記念室」に息づいています。…次回はその運命の扉をそ~っと叩いてみましょうか!!?

戦前の貴志康一が重要な位置づけにあったことをお知らせしたかったので、こんな風になってしまいました。次回は「仮想特別番組・貴志康一物語」を。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

178kishi

貴志康一のCDジャケット

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