035「屋根の上のヴァイオリン弾き」誕生秘話  森繁久彌①

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(035)

20 世紀が生んだ日本のマルチ・スーパー・エンターテイナーは…森繁久彌さんだと言っても過言ではありません。1年前の11 月10 日に96 歳で没した森繁さん。まさに巨星墜つを実感…ヨッサンが敬愛してやまない指揮者朝比奈隆先生(2001 年没)以来のことでした。

なんてったって…俳優として映画・舞台・テレビに、作詞・作曲はするは、はたまた自分で歌うは、アニメの声優や、それにNHK第1の“日曜名作座” (1957~2008)の朗読は絶品。

そんな森繁さんの代表作…ライフワークといえば…ミュージカル“屋根の上のヴァイオリン弾き”。1967年から198 6年まで、森繁さんは当たり役“テヴィエ”を900回も演じ続けたのです。(900回は凄すぎる数字… 松本幸四郎が“ラ・マンチャの男”で900 回を更新するまで日本記録。)

あれは1978年9月22 日のことでした。はやる気持ち…緊張と興奮の面持ちがない交ぜになりながら“屋根の上のヴァイオリン弾き”を上演している梅田コマ劇場の楽屋へと向かいました。そう、森繁さんの楽屋へ。(当時65 歳。梅田コマ劇場…懐かしい名前やナア~、阪急電鉄の創始者・小林一三が生涯の夢であった理想の劇場で回り舞台=駒(コマ)のように回るところから命名。現在の梅田芸術劇場)

まずは、何故このミュージカル“屋根の上のヴァイオリン弾き”がスタートしたのか⁉…笑えるお話から…

「10 数年前、ソニーの盛田さんて社長さんがね、(盛田昭夫…ソニー創業者の1人)あの人、非常にミュージカル通で、ニューヨークで(屋根の上のヴァイオリン弾き)を観てすぐにね“森繁が出てる‼”って、すぐに東宝の本社に電話をかけて来て、ニューヨークから… “この作品をすぐやれ‼私が推薦する”。それで菊田(一夫)さんらがすぐ観に行って。そのころ私の女房( 満壽子夫人)がニューヨークで遊んでいて、盛田さんが“奥さん!あんたのご主人が舞台に出てるんで、観なさいよ!⁉”“何いってるんですか??  !”と言いながら、入って観ているうちに、女~房がですよ、40 何年一緒の…“あら! ホントに出てきたワ‼”って。

そんなことがキッカケで。(最初)森繁が歌って踊って、できるかな?って、色々言われたんだけど、歌ったって“枯れススキ”みたいな森繁節でもあるしと、それもあったかもしれませんが。約40 日の稽古をして(幕を)開けましたけど。(19 67年)毎回、再演するたびに40 日稽古する。やってる途中(上演中)でもね、ちょっと崩れてくるとすぐ稽古する。悪い意味で慣れるから。慣性という慣れ。ナレナレシイが出てくると困る。だからすっごくチェックしますよ皆な」そうなんや!慣性から磨き抜かれたミュージカルが完成するんや!

ならば、ミュージカルの魅力とは?を伺うと意外な事実が…

「テーマは、暗い、重い話ですよね、5人の娘を持った貧乏人の、ミルク絞りのおっさんの話だけど、その裏には祖国のないユダヤ人たちがロシアというところで肩をすぼめて、当り障りのないように、そ~っと屋根の上のヴァイオリン弾きみたいに、ハーモニーを持ちながら生きてる。それが題名になっている。暗いテーマだけど、全部面白く見せろ!と。

ニューヨークでは“トゥー・サッド”っていうんですね、あまりにも悲しすぎる。そうすると嫌がるのね皆。お客が来ないの。それで、2分か3分くらいで私が笑わすわけですよ!森繁が勝手に笑わせている… と、“あの人はアドリブがうまい”からと、思うかもしれない。そうじゃなくて全部演出ですヨ!終始笑い、とってつけた笑いでは無い」

まさに演出の勝利だったんですネ。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

morishige

「森繁久彌の屋根の上のヴァイオリン弾き」CDジャケット

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