198 電車の運転免許持った指揮者 朝比奈隆 ④

もしヨッサンがアナウンサー養成所に通ってなかったら、そこの講師(FM大阪勤務)Sさんに“FM大阪でアルバイトありませんか⁉”と電話していなかったなら、その時、1人の欠員がなかったら、そして先週お話した武田広さんがFM大阪を断っていなかったら、ヨッサンはFM大阪のアナウンサーになっていなかった。どこで“人生のワン・チャンス”があるか分からない。

我等がマエストロ・朝比奈隆…音楽大学に通ったわけでもない、指揮者コンクールを受けた訳でもない…京都大学法学部卒~“阪急”に就職。電車部門に百貨店部門、それに電力部門も体験。

先生は語ります「電車部門で踏切番もやったんですよ⁉のんびりした時代でネェ、近所の家からムシロを借りてネ、寝転んでは学生時代に読み残した本やスコア(楽譜)を読みまくったり、それに世界広しと言えども“電車の運転をした(免許を持った)”指揮者はいないですよ。ちょっと取れませんぜ‼」(朝比奈運転手の馬鹿でかい声で“出発進行!”後部車両にいた音楽の友人Y“ワァ~、朝比奈の運転や!危ないぞ。降りろ降りろ‼”また百貨店での担当は6階の家具・陶器・タンスなどの売り場。丁度その頃、蓄音機やレコード、ラジオなどの音響部門もあり、先生の売り場は閑散だったので、よく大きな音量でレコードをかけて楽しんだとか…等々、伝説的なエピソードはワンサカ)

ひと通り職場を体験した朝比奈先生は、何か虚しさが渦巻く…そこへ“兎に角、お前はこの会社に合わん。やめちまえ、やめちまえ‼”電撃発言をしたのが正岡子規のいとこ正岡忠三郎の一言(彼も文学の造詣が深かった)。

阪急を退社し、再び京都大学文学部哲学科に。(文学部には後の文人・井上靖がいた)そして神戸に住む(あの阪神間モダニズムをこの欄でもご紹介した深江村の)メッテル先生宅へ挨拶に。メッテル先生の(これまた)ひと言(流暢な日本語で)「もう一度、音楽を一からやり直してみたら‼3年間、私に体を預けなさい。日本の諺に“石の上にも3年”って…」

ここからメッテル先生との格闘・師弟愛が始まった…この年が昭和8年、1933年が朝比奈隆音楽生活のスタートとなっている。この時、朝比奈隆25歳だった。

〈以来…抱えきれない、書ききれない、50年間の朝比奈隆・音楽人生…大胆にも略〉

1983年。朝比奈先生の軽妙洒脱な語り口は続きます。

「阪急時代にお世話になった方々の中には、今でも時々、声をかけて下さる方があるんですよ。“まだブカブカやってるんですか⁉”ってね。オーケストラの前で棒振って、ブカブカやっとる訳ですからね。今年の正月(1983年)丁度50年目で、阪急に年始に行きましたらね、(50年前に“お前なァ、会社やめてそんな事(音楽の道)したら、今に乞食(放送禁止用語なので…ホームレスに訂正)になるぞ”って言われた大ボス・阪急百貨店会長の清水雅さんが来ておられて、“しばらくやなァ、ちょっと話していくか”と言われたんで、応接間に入って、“御蔭様で、今年で会社やめて50年になりました”って言ったら、“50年か。良かったなァお前、乞食にならんでよかったなァ”と、50年間覚えていてくだすった。それ程、不安定な職業だったんです…」

回り道の人生を語る朝比奈先生。インタビューテープもまだまだ回っている。

写真は…1993年7月3日、朝比奈先生が85歳のお誕生日を迎えられる6日前、“吉川さん、(音楽評論家の)響(敏也)さん、3人で一杯やりましょう‼”と先生からお声をかけられた。よく喋り、よく食べ、よく飲んだ…その時の記念すべきスナップ。まさに健啖家の先生。宴の後、“すたこらさっさ”とタクシーに乗ってお帰りに。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

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85歳の誕生日を前に朝比奈隆さんを真ん中に、響さんと3人で(リーガロイヤルホテルにて)

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