130 沖縄が生んだテノール歌手 新垣勉 ①

“風かおる~緑の園を…”40数年前、夕陽丘高校の放送部員だったのいりん(野杁育郎)とヨッサンは文化祭になるとサテライトスタジオ(ベニア板を組み合わせ、ガラス張りではなく、ビニールシートで造作)の中にマイクを置いてDJタイム。その頃、深夜放送も楽しくってネ。2人はラジオ大阪の“アナウンサーコーナー”が友達…まさに青春時代黄金期だった。そんな2人がおっさんになってホンマモンの放送局(FM大阪)で一緒に番組(「なにわルネサンス おとなの文化村」)をやってるなんて…。

ラジオ少年だった勉君がヨッサンの前にやって来たのは8年前。マイクを向けるや否や、やおら声が弾んで自分で喋り出した…勉君「小学校3年の時“学芸会の司会をやってみないか⁉”…それぞれのプログラム、演技、曲目の紹介とか全部読むわけですよ…楽しいもんだナアと。

で、4年生になり、放送部に入りまして、これまた楽しい訳ですよ、色んな番組を作ったりネ。あの頃(今と違って)オープンリールですからね、懐かしいあの日あの頃。

そんな勉君「小学校から高校まで、ず~と放送部。で、中学3年ぐらいですかね、学校の校内放送だけでは飽きてしまい、(本物の)放送局に葉書を出しまして、そして押しかけて行って、(本物のスタジオから)自分の声を皆に聞いてもらうのが楽しみで…よぉ~するに出たがりだったんですね」目立ちたがりや!それやなかったら後年の勉君=テナー歌手は成り立たなかったのかも。

Y「どんなお喋りで学校では校内放送を流してたんですか⁉」

輝くように…勉君のテンションが膨らんできました‼

「は~い、みなさん、こんにちは~‼ちゃんとコールサインも作りましてネ(Y「え?どんなん??」)オー!エム!エイチ!(ОMH)」

Y「オー?エム?エイチ?」勉君「沖縄盲学校放送部(О:沖縄 M:盲学校 H:放送部)」

かつて沖縄は琉球王国と呼ばれ、武器を持たない王国として知られ、かのナポレオンが“武器を持たず、戦争を知らないんだと⁉”と信じられない表情を浮かべたとか。

武器を持たない島、県、沖縄。日本が第2次世界大戦に邁進し、地上戦で20万の方々を失った沖縄。敗戦した日本がアメリカの統治下に置かれ、アメリカ軍基地が置かれた沖縄。勉君はその沖縄でこの世に生まれたのでした。

勉君。新垣勉…1952年11月6日生まれ…還暦間近。

メキシコ系アメリカ人在日米軍人を父に沖縄の母との間に生まれた彼は、生まれて間もなくとんでもない事故に遭います。看護師が乳児の目に洗浄する点眼液と家畜を洗う劇薬を間違えてしまったのです。その日から彼の瞳は開くことはありません。あまりにも惨い医療ミス。

追い討ちをかけるように父母は1歳の時に離婚し、父親は帰国。母親は勉君を捨て再婚したために、彼は母方のおばあちゃんに育てられていきました。祖母はお母さん、実母は彼の年の離れたお姉さんだと教えられ。

(これ以上書けない…実はヨッサンも“おまえの母親は小さい時に死んだんだよ”と教えられていた。後年、父母は2歳で離婚。母はヨッサンが中学2年の時に亡くなっていたことを知ったのでした)

同じように勉君は14歳で(母と呼んでいた)祖母を亡くして天涯孤独の身となってしまったのです。

勉君「ある時、ラジオから流れてきた賛美歌を聴いてね、何気なく礼拝に行ったんですよ。牧師さんに自分の思いのたけを話した訳です」の書き出しから次回はペンを進めていきましょう。そこから彼の“心眼”にキラリと光る道筋が浮かんでくるのです。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

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新垣勉の「魂の歌」CDジャケット

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