031 世界の“オザワ”への手紙 小澤征爾

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(031)

世界の…といえば誰を思い浮かべますか?映画の黒澤明、ホームランの王、そして我等が指揮者小澤征爾!な、なんとヨッサンは今から20 数年前に小澤さんに一通の手紙を…

「春のプレリュードが、野や山でかすかな音色を奏でています。早く早くときめき色の春に染まってみたい今日此の頃。小澤さん、お元気ですか⁉小澤さんが世界の檜舞台を目指して“指揮者航路”に旅立ったのが1959年。

この間、久しぶりに読みました。“まったく知らなかったものを知る、見る、ということは、実に妙な感じがするもので、僕はそのたびにシリと背中の間の所がゾクゾクしちまう…”で始まる例の本「僕の音楽武者修行」(新潮文庫)。

24 歳の小澤さんが胸に日の丸、チョーネクタイの若者がスクーター飛ばして、音符の車の跡を残して走っているイラストが表紙になってるやつ。めくると…今では考えられない正しい髪型の小澤さん(失礼)。ミスタースポックのような(失礼)大きくピーンと跳ねる耳⁉昔も今も張った鰓(えらいすんまへん)、凛々しい若武者のスナップ写真が。

ページをめくるめく。何と、僕の“恋する心”“夢”“希望” “不安感”“挫折感”がないまぜになって過ぎていった高校時代がオーバーラップしてきたんです。一音一音ならぬ一行一行、目を滑り込むようにして読んだこの本は、僕にとって“生きる喜び”“チャレンジ精神” “音楽の素晴らしさ”“実力+ 運命の糸の不思議さ”を与えて下さいました。

“いつか、絶対に、人の心を豊かにさせるアナウンサー(D J)になってやる‼無口な僕ちゃん(誰も信じてくれへんワ) へのチャレンジや”と。(その後のアナウンサー人生は中略)

覚えてらっしゃいますか⁉大阪城の梅の花が上品さを振りまいて春を告げていた1985年3月12 日。場所は(今では懐かしい)ホテル・プラザ1Fのバー“マルコポーロ”この黒メガネの男ですヨ‼

“こんばんは!お母さんを連れての四国旅行はどないでした?”(大阪フィルを率いての高松、徳島公演)“いや僕、生まれて初めて行ったの。関西から夜、おふくろに電話したら、あたしも行ったことがない。それじゃ来ないかって、翌日京都で合流して…楽しい四国やってきました”

小澤さんらしい言葉使いとイントネーション、そしてお母さん思いが、短いフレーズからこぼれ落ちんばかりでした。あの時のテーマは2ヶ月後にフェスティバルホールで指揮するベルク作曲“ヴォツェック”の魅力について⁉難曲中の難曲を、コンサート・オペラ形式で、それも歌手は日本語で歌う…という画期的なステージでした。

“なんで日本語でやりはるんですか?”と尋ねると“やる方も、自分の言葉で歌っていると、顔や表情に表れ、芝居が本当になってくるでしょ。せっかく日本人がやるんやから、これは日本語でやった方がエエと思う…”と、遂には小澤さんも大阪弁がでてきましたネ‼

最後にこう語ってくれはりました。

“いいオーケストラ、いいソリストに恵まれているでしょ! なるべく、これ長続きして、身体をいいようにしとかないと。身体の状態が悪かったら指揮者なんて、すぐダメになっちゃう。それから頭がボヤケてきたらダメになっちゃうし、僕なんかが今楽しんでいるベートーヴェン、モーツァルト、ブラームス、それのこのヴォツェックもそうですし、そういうの、こなしていくっつうのは、やっぱり、人間がちゃ~んと、いいいくやってなきゃダメですネ…” この“いいいく”という言葉が、シンフォニーの調べにも似て耳に心地よくいつまでも響いていました‼」

こんな手紙、恥かしくって今も手元に‼ホンマカイナ!(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

ozawa

小澤征爾さんとのツーショット (1985年3月)

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