189 宝塚歌劇団の誕生秘話

超過密電車のようにぎっしり詰まった本棚から(一度、こんな台詞をゆうてみたかった…)実は、高層ビル“ハルカス”は美しいけど、今にも崩れそうな山積みされたヨッサンのCDや本の危なっかしいこと。その中から色付いた(変色した)1冊の本を取り出した。

“誰にでも夢がある。それはたとえ小さくとも、その夢がふくらみ、花を咲かせ、立派に実るのを見るのは楽しい…”昭和30年5月と記された前書きから始まった「小林一三著・宝塚漫筆」は、昭和35年に実業之日本社から発行された“宝塚漫筆”と昭和8年に岡倉書房から発行された“奈良のはたごや”をまとめて阪急電鉄が昭和55年に出版した貴重本。(絶版)

阪急の創立者小林一三(1873~1957)…号を逸\sl79\slmult0 いつ翁\sl79\slmult0 おう…の温泉のように宝塚愛が溢れこぼれそうな名文だ。宝塚生い立ちの記の章にはこう認められている「宝塚という名称は、以前は温泉の名であって、今日のような地名はなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった」とあるように武庫川の岸に小さな湯小屋があったそうだが、湯治客はほんのひと握り。

のちに阪鶴鉄道(知らんでしょ⁉大阪から福知山を経由して舞鶴を結んだ)が1895年開通し、宝塚温泉は急速な発展を遂げ宿屋や料亭が軒を並べるようになったけど、武庫川の東岸=現在の宝塚新温泉側は箕面有馬電気鉄道が開通しても数軒の農家だけ、“こりゃなんとかせなアカン。人集めや!乗客を呼ばなアカン”

そこで、箕面には動物園が(この計画は大自然保護の為中止)、宝塚には武庫川東岸の埋め立て地を買収して、新しい大理石作りの大浴場と瀟洒な家族温泉を作り、一大娯楽場となった。

著によると「明治45年には、近代的な構造の洋館を増設して、室内水泳場を中心とした娯楽設備を設けて、これをパラダイスと名づけた。このプールの設計は、その当時の日本にはどこにも無い最初の試みであったが、時勢が早すぎたことと、蒸気の通らない室内プールの失敗と、女子の観客を許さない取締や男女共泳も許さないといういろいろの事情から、利用される範囲がすこぶる狭く、結局失敗に終わってしまった。この水泳場を利用して、温泉場の余興として、遊覧客を吸収しようという計画がいろいろ考えられた」

それが15、6名の少女を募集して、唱歌を歌わせようという宝塚唱歌隊…つまり宝塚歌劇団の原形だったのです。

第1回公演は大正3年(1914年)4月1日から5月30日まで。歌劇「ドンブラコ」ほか。まさか温泉場の余興が、のちの日本歌劇の一翼をにない今年100周年を迎えるとは…。著の中で思わず笑ってしまうのは「その頃の女の子は、膝から上はどんなことがあっても出さない。もっとパッとまくって、足を見せなくてはいかんと(僕が)いっても、膝までは出すけれども、膝から上を出すなんて考えてもおらなんだから、先生方はどんなに(僕が)やかましく?いっても、いうことを聞かない。それで非常に困ったのを今でも憶えている」

…そんな時代だったんやナア。今時の女学生は“そないに足を出すスカートにせんでもエエやんか‼と言いたくなるのに。

大正3年の歌劇上演から10年後(1924年)に一三翁は大劇場主義を実現したいと、なんと4000人収容の大劇場を竣工。10年後の昭和9年(1934)東京宝塚劇場がオープン!小夜福子、葦原邦子らがレビュー黄金時代を築いていったのです。

そんな葦原邦子さんにインタビューしたのが1977年のこと。1912年、神戸市東灘区深江生まれの葦原さんは、昨年亡くなった春日野八千代さんと同期生の男役スター。内容は次回に。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

189kobayashi

小林一三著『宝塚漫筆

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