なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(081)
苦悩から歓喜…オカン(敷島博子)のオーケストラ“大阪シンフォニカー”が産みの苦しさを象徴するかのように産声をあげた音楽は…“第九”だったのです。
1980年12月、場所は何と福島県会津若松市。第1回定期演奏会の前年暮れのことでした。敷島さんは初練習のこと、あの大雪に見舞われた会津若松でのことを、まるで今日収録したDVDを観ているかのように語ります。
♬S:敷島博子 Y:ヨッサン
Y「最初の練習って覚えてます?」
S「(目を輝かせて)覚えてますよ!幼稚園のホール(体育館)でした。窓は全部閉めてネ。さあ、これからオーケストラが始まるんだ…忘れもしない缶ジュースで“乾杯!”最初に出た音が、第1回定期演奏会の曲目モーツァルトの“ハフナー”(交響曲第35番)いい音しましたよ~!」
Y「それで、第1回を迎えるんですね?」
S「いえいえ、練習を始めたとたんに指揮者の小泉ひろしさんが(お仕事を…というより演奏機会を持って来て)会津若松で“第九”をやることになったんです。会津が初舞台。会津は25年ぶりの大雪。水道は出ない、道路は寸断。そこへ行く訳です。ギャラは…交通費の50万。だから2階建てバスをチャーターするのに観光バス会社にぜ~んぶ電話をかけまして(電話にご縁があるオカン)、1番安かった三重交通にお願いしました。抱えきれないほどの持てるだけの菓子パンを買ってネ、お弁当買えないから(お金がない)バスの中でお茶を沸かす。本番前の晩、新大阪を出発…夜明けの東京を駆け抜けて…福島に入った時の雪、若い楽団員は(バスから)飛び降りて雪合戦です!喜んで喜んで…パンしか食べてないのに(オカンの涙)。着いて、すぐ練習ですワ。そしたら(指揮者)小泉さんが来ない!どうしたのか…東京から新潟周りでタクシーを…雪で動けない」
Y「その頃は携帯もないし、連絡の取りようがアラヘン。もうアカン。それで…」
S「コンマス(コンサートマスター)の亀田さんの合図で音を出しかけた時に、座席の1番後ろから小泉さんが走って現われた…指揮棒を口にくわえて…カッコよかったですよ!(Y「目に浮かびそうや」)通路をプァ~っと走ってネ。ピョ~ンと舞台に飛び上って、シャ~っと(指揮棒を)振り始めたんです。忘れられない光景ですヨ。それを見た私はウォ~ンと涙ですワ(ヨッサンももらい泣き)」
♬
楽しくも過酷なスケジュールを乗り越えた楽団員は、その3ヶ月後、晴れの第1回定期演奏会を迎えたのです。
が、船出からがさらに大変でした。船といえば…
S「福岡から大分、熊本とず~と回るお仕事があって、行きの船賃・汽車賃があるだけなんです。片道切符。その土地、土地でギャラを貰って前に進む。福岡の銀行でギャラの振込みを待って待って…銀行員の人が“振り込み、まだですか?まだですか?”の催促にいやな顔をする…そうして振り込んできたお金を掴んで、大分に行く電車に飛び乗る。木賃宿でお金を計算していると、部屋の外に(楽員が)5人ほど並んでる“晩ご飯食べに行くお金がないから、はよお金くれ!”涙ですワ、ホンマに」
大阪~別府は船底…板の間の上に毛布敷いて、解凍まぐろが横1列に並んでるようにして寝たんだとか(信じられんワ)。
♬
涙といえば…
S「ある会社に行って“切符買って下さい”ゆうたら“おたくの切符なんてこうたって(買っても)紙くずですワ~”ゆうてゴミ箱にほりはった人ありますねん。“お金はあげるけどね”といいながら。ホンマ…情けない思いは一杯しました」
そんなこんなのオカンのオーケストラもこの11月1日には第160回定期演奏会を迎えました。オカンありがとう!(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)
大阪交響楽団(旧大阪シンフォニカー交響楽団)の定期演奏会 Ⓒ飯島隆