021 コバケンがカラオケで歌った曲は… 小林研一郎④

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(021)

“兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川…”ザ・シンフォニーホールのお客様の大合唱がホール中に響きました。

炎の指揮者コバケンこと小林研一郎が大阪フィルを指揮したブラームスのシンフォニー1番と、まるで演歌を思わせる節回し“ユーモレスク”のアンコールが静寂とともにホールに溶け込んだあと、オーケストラのメンバーは解散…終演かと思いきや、コバケンさんがスタッフに下手に止めてあるピアノを中央まで動かしてもらい…“みなさま私のピアノ伴奏で歌って下さい”と言って「ふるさと」を。これぞお客様との一体感…サプライズでありました。

そういえば…ヨッサンが初めてコバケンさんにマイクを向けた最初の言葉が「故郷…雨の上った後、蛍が飛び交う、小鮒が群をなしていた清流とか、5 メートルも透かして見えた海とか、手を叩くと飛び上がった蝗(いなご) …ものすごく心に残っているんです。そういう情感というのが…今の僕を支えてくれていると思う…好きですネ!田舎の昔の思い出っていうのは、今の自分の記憶の中でしか存在しなくなった」…コバケンさんはお客様と歌の世界で“故郷”を共有したかったんやろネ!

34 歳で奇跡的にブダペスト国際指揮者コンクールに優勝!まさに“おしん指揮者、遅咲きの名花ですネ⁉”とヨッサンの投げかけに素直に「有難うございます」と語るコバケンさん。「でも、34 歳にもなって日々過ごすお金にも困っていた頃、自分の将来ってどうなんだろうって、不安に思った事もありました」。そんな日陰時代にこんな練習も。

「オーケストラの練習してますネ。フォルテッシモで誰かさんにお願いする時、止めていたんじゃ皆なしらけきっちゃう。だからフォルテッシモでオーケストラが鳴っている時に、更に聞える大声を出してやろう…というんで、家の窓から大声を出す訓練をしたんです。向こうの方に喋りかけるんです。“オーイ!”って…。最初は100 メートル先の人が全然振り向きも何もしなかった。そのうち何か“おやっ”ということになります。3~4年そういう訓練をやりましたヨ…」

そんな発声訓練をしたコバケンさんのお家を訪れたのは19 85年の夏の名残が残る頃でした。

東京都世田谷区千歳船橋… “田園が続き、小川が流れ、夕焼けにそまった富士山が遠くかすかに浮かんでいた。それらは少年時代のいわき市を彷彿とさせた。”(小林研一郎著「指揮者のひとりごと」から)この土地を18 歳で知ったコバケンは当時高校教師生活の幕を下ろしたお父さんに…な、なんと定年退職金でこの土地を買って欲しいと熱望したそうな!

今回お邪魔した目的は“ふぐ…河豚”。コバケンさんはハードなスケジュールをこなすために、家にいるときには必ずっていいほど近くにあるふぐ料理店“漁火”に入り浸りになり、その味に酔いしれるんだとか。“一度お越しください”の一声でやって来ました。

ふぐずくしに舌鼓を打った… ら。上機嫌なコバケンさんが“隣のカラオケに行きましょう!”まさか?マエストロとカラオケ…それも演歌!!?

いよいよコバケンさんがマイクを握り…歌い始めます。古賀メロディらしいイントロから~ すでに歌いだしが始まっているのにコバケンさんの声がでてこない…やっと“ひ~とりさかばでの~む~さ~けは~…”(悲しい酒)機械的なテンポの伴奏と情感をたたえて(音楽的に)歌うコバケンさんとのギャップ。やっぱりコバケンさんには空(カラ)オーケストラより、生(なま)オーケストラが似合いました。

1993年のニュージャパン音楽サロンでも、コバケンさんはピアノに向かい、自らのテンポでゆれ動かしながら“悲しい酒”を歌ってくれたのでした。(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

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ふぐ料理店「漁火」で小林研一郎さん(中央)と。左がヨッサン。 (1985年)

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