093 ボストンマラソン参加がプロへの分岐点に 林英哲③

なにわのヨッサン とっておきの【音楽交遊録】・・・・吉川智明(093

アナタはこんな激烈な過酷な毎日を送ることが出来るかナ…?!鬼太鼓座結成当時の日々を林英哲さんは振り返ります…

H:林英哲  Y:ヨッサン

H「初期の頃は、ズブの素人の集まりでした。芸がないんだから、体力だけでも鍛えておこうとマラソンを取り入れて、朝4時に起きて(20キロ)走って、お昼も走って、午後も走って、その間に太鼓の稽古、三味線の稽古とか踊りの稽古をやる…年中無休の合宿生活。テレビも見ない、ラジオ、新聞、娯楽なし。人と付き合うこともない、給料なし、自由時間なし、(ないないずくし)海外公演に出るまでは!!」

Y「アカン…即、“尻(ケツ)割る”ワ」(大阪弁はおもろい…尻割る、ケツまくる…ヨッサンもよくやっていまする)

自分たちの夢はいったい何だったのか…1年が2年…2年稽古すれば海外公演をするのではなかったのか?!が、レパートリーも増えないし、人前で(お見せ、お聞かせ)出来るものはないから、結局4年経ってしまった。が、通常の出し物だけで評判をとるのは難しいから、“チョッと変わったことをやろう!”と、考えついたのが“ボストンマラソンに全員参加し、完走し、ゴールをしたら15人全員で太鼓を叩く!!

42・195キロ走るのも大変なのに、その後で血沸き肉踊る躍動の和太鼓をやる…信じられないことをやってのけた。それがアメリカ人に受けた!メディアが大きく取り上げた!!その名は〝マラソンドラマー〟の誕生だった…1975年のこと。

まさか!?こんな運命的な出会いがあるとは…

H「当時、丁度指揮者の小澤さんが(このマラソンの見学に)いらっしゃって、家族で応援に来られたんです。“日本人のおもしろい?!グループが走るらしい”と。(小澤征爾…1973年から2002年までボストン交響楽団音楽監督)マラソン後の太鼓演奏を聴いて、小澤さんが一言“ボストンシンフォニー来て、演奏してよ!!”」

次の年、小澤征爾指揮ボストン交響楽団と共演する彼等の姿がありました…曲はこの日の為に作曲された石井眞木の“モノプリズム”(太鼓コンチェルト)。出来上がった譜面を見て飛び上がった!!“僕以外にメンバーで譜面を読める者がいない…!指揮者にあわせて演奏…そんな訓練したことない!!”果たして…聴衆のスタンディングオーベーション…あの時のダンボール箱を叩いて覚えた符読みが生きたのだ!!。この時、林英哲24歳。

ボストン初演本番前、自問自答する英哲…

H「いつか美術の役に立つと、だまされたような動機で始めた太鼓活動。こうやってボストンシンフォニーに招かれた…(瓢箪から駒だけど)これは大変なこと。腰掛気分では小澤さんに失礼だ。失敗は許されない…。“美術の道は諦めるべきか?!プロの太鼓叩きになるべきか?!”アメリカの移動バスの車中“どうしよう?どうしよう?”と思ったある瞬間、線路のレールのポイントをこっち(太鼓側)に“ギィ~~~~ギィ”“ガッチャン!!”(と倒す音が)心の中で確かに聞こえた…のです。この時が和太鼓プロ奏者林英哲の誕生でした。もし美術の道を選んでいたら…罰(バチ)が当たってたかも知れませんネ?!

大太鼓の演奏を聴いて赤ちゃんはゴムのようにのびて熟睡する…赤ちゃんはお腹の中でお母さんの心臓の音を全員(人類皆な)聞いている…その周波数と太鼓は同じなのかも…と林さん。赤ちゃんの夜泣きに大太鼓がよろしいでっせ…とヨッサン??!大太鼓のお値段…家(うち)が建つ!!300~400年の大木“けやき”それに上質の牛の皮。林さんの日課…基本叩き練習1時間…その前に、その場とびジャンプ(縄跳びは階上下に響く)を1111回ジャンプ!!“鼓動”高鳴るお話ばかりでした!(よしかわ・ともあき FM大阪くらこれ企画プロデューサー)

093hayashi

オーケストラと共演する林英哲さん

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